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じぶん自身が変化してしまっている。

先日のブログでは、このブログを書くことにおいて
「なるべくいろいろなことを書きたい!」
というのを申しあげました。
でも、それは、なかなかむつかしい。
毎回、ちがう内容のことを
書きつづけるなんてできがたいから。
そんなふうに思うぼくとしては、日々、けっこう
似たようなことをブログで書いていると思う。
もっと言うとするならば、
以前書いたことと同じことを
書いてもよい、とも思っている。

とは言いつつ、たとえば、
同じことを書こうとしてみても、
書く日がちがえば、かならず
文章のどこかはちがってきて、
内容もまったく同じにはならない。

以前書いたことと、一語一句、
まったく同じには書けないから。

以前書いたことは、
以前書いたんだから、
すでに書き終えた、という経験が
じぶん自身の中にどうしても
残ってしまっていて、今、
同じようなことを書こうとしても、
以前書き始めようとしたときの段階には、
もう戻れないんだから。

そう考えてみるとすれば、
「なにかを書く」ということは、
そのなにかを書き終えたときには
じぶん自身が変化してしまっている、
というふうにも言える気がする。

だからこそ、以前と
同じことを書こうとしてみても、
まったく同じにはならないし、なおかつ
ちょっとちがった内容になる場合もあるのだろう。
じぶん自身の考え方自体が変化してしまって、
正反対の結論になる場合もあるやもしらないし、
もしくは、その書いていたことからさらに
つづきのように書ける場合もあるやもしらない。
そういうような、つまり、
以前書いたことと今書くことがちがう、
ともすれば、じぶん自身の
過去と現在との「変化」を知るためにも、
以前と同じことを書こうとしてもよいと思うの。

とは言いつつ、
なにかを書き終えたときには
じぶん自身が変化してしまっている、
であるとすると、それは、
けっこうこわいとも思える。
変化って、
よい変化もあれば、
わるい変化もあると思うから。

その変化が、たとえ、
よい変化でも、わるい変化でも、
そのようなじぶん自身の微細な変化を
感じ取ることができるかのごとく、
変化に敏感であれたい〜。

令和6年6月28日


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