20180617そら

「教育」と「学芸」。

前回noteでは「教」の字、前々回noteでは「藝(芸)」の字を、それぞれ『常用字解』で調べてみたですが。

漢字の形って、まずは絵のような甲骨文字があったり。それから、形と形がくっついたり、はたまた、省略されたりしながら、ちょっとずつちょっとずつ、げんざいの字になっていったんだなあ。とぞんじますが。

それだけ途方もない歳月がかかって、できたもの。って思われるわね。

ってぇなるとだよ。

たとえば、これまで各時代時代のあらゆるひとたちの「手」の動きや「体」の動きや「思い」や「気もち」みたいなのが、文字のなかに含まれている。と思うし。

であるとすれば、「漢字」という文字の形には、そういうあらゆるひとびとの「気もち」が練りこまれたような、おおきな「力」がある。ってのも思える。

せんじつのnoteでも申しましたが、糸井重里さんがほぼ日の古賀史健さんとの対談のなかで、、

日本では昔、先生を育てる学校には「学芸大学」とつけていたんです。(中略)だけど、ある時期から、各地にあった「学芸大学」が「教育大学」という名前に変わったんです。

‥‥とおっしゃっていて。

「ひざまずいて、育てる」という意味の「学芸」から、「鞭で躾ける」という意味の「教育」へと変わって行って。

げんざいではなにげなく、ぼくも、とうぜんのように「教育」ということばを使っているけれども。このなにげなく使っている「教育」には、「鞭で躾ける」という意味がある、ってぇのを知って。

ぼくはおどろいたし。

また、ちょっとこわい。とも思った。

なんだか、たとえば、この「教育」という語句を、使えば使うほど、ぎゃくに、この漢字に内包されている「意味合い」に、つまり、ことばが持っている「力」に、じぶん自身が絡め取られちゃう。みたいなことがあるんかもしれんわ。

どんどん「鞭で躾ける」的なひとになってゆく。みたいな…。

ぼくはいま、アルバイトで小中学生の学習塾講師のおしごとをしておるですが。

だからこそ、もっと、この「藝」や「学芸」ということばを大事に思えるようでありたいなあ。と感じたの。

えーっと。

すこし唐突ですが、たとえば、「北風と太陽」のおはなしでたとえるとすればさ。さしずめ、「北風」が「教育」のほうで、「太陽」が「学芸」、的な?????

いや、わかんないけれど。むつかしいかもだけれど、「太陽」の側であれるようでありたい。

平成30年6月17日


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