表紙14

其の八 りんご1個の価値。

《2008年7月19日・昭和女子大学人見記念講堂にて開催されました吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聴いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

どうもこんにちはー。

前回noteではね、アダム・スミスが『国富論』のノートの中でとってもやさしい言葉によって「古典経済学」の考えかたを言い当てていた。の、それはつまり、、、

それは、どういうことか? って言いますと。あの。えー、たとえば野原に…、こういう例を引いてます。野原に1本の、たとえばりんごの木が生えてた。と言いますか、あった。そして、(チャプター04 / 古典経済学から芸術言語論へ_2:35〜)

たとえば、野原に1本のりんごの木が生えていて、

そのりんごの木に、たくさんの実が成っていた。成っていた、とする。

その木には、たくさんの実が成っている。

で、その実のひとつを。ひとつを取って、食べたい。というふうに考えて、考えたときに、その実ひとつの価値…、価値ですね。あの、バリューですね。価値ってのは、どういうふうに考えるべきか? 

この実のひとつを取って食べたい。と考えたとき、りんごの実ひとつの「価値」とは、どーいうふうに考えたらよいのか?!

って言うのを、あの。その『国富論』のなんて言いますか「解説」と言いますか「注釈」と言いますか「ノート」と言いますか、それの中でやさしく述べてるわけです。で、スミスの言いかたはこうです。

てゆうのをその『国富論』のノートのなかで、アダム・スミスはやさしく述べている。とのことで。。

その、野原に。その、自分が立っているところから歩いて行って。それで、そのりんごの木の幹を登って行って、りんご1個つかんで引っこ抜いた、と。

じぶんの立つ場所よから歩いてゆき、りんごの木へ登って実を1コつかんでもいで、

で、引っこ抜いて、また、幹づたいに降りてきて。元のところまで帰ってきた、と。この間(かん)、このつまり、行って実をもいでそれで帰ってきた、元のところへ帰ってきた。

また、幹を降り、元の場所へ帰ってきた。

それまでに費やされた、その人の能力が。能力と言いますか、労力と言いましょうか。労力が、要するにこのりんご1個の価値だ。っていう言い方で、あの、つまり価値っていう概念を説明しているわけです。

それまでに費やされたそのひとの「労力」が、りんご1コの「価値」である。。。

あるいは、えー。のちのちが「労働価値論」というふうに言われたように。それは労働して、りんご1個持ってきて。もいできたときのりんごの価値ってのは、それまでこう歩いて行って木をもいで、それでまた元のところへ戻ってきた。それまでの労力が、

のちのちで「労働価値論」と言われたように、労働して、果実を持ってきたそれまでの「労力」が、

要するに、そのりんご1個の価値だ。って言うふうに、そういうふうに説明してます。

そのりんご1コの「価値」である。このように『国富論』のノートでは説明されている。

‥‥と。なんだかさ、そんなよーな「価値」とはどーいうことか?! なんてぇ、これまで考えたことなかったぁ。このつづきは次回noteで聞きます。こんしゅうも頑張っていこー!!

平成28年8月22日



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