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「伝言ゲーム」のごとく。

きのうのブログでは、文章を書くことにおいて、
言い切るように書くこと、つまり、
断定をするように書くことが
重要である、というのを見かけたけれども、
ぼくのこのブログの文章では、
まったくそういう書き方になってない。
でも、それが、たとえ
自己弁護な文章なのだったとしても、
ぼくは、ぼくなりに、非力ながらも
じぶんの考えごとを考えるがために、
言い切らず、断定もせず、つまりは、
「かもしれない運転」のごとく
「かもしれない文章」を記せたら、
ってゆうのを記したですが。

とは言えども、ぼくだっても
断定をして言わないといけないときがあって。
それはね、ぼくがパートで勤めている
学習塾講師の仕事のときだ。
学習塾講師として生徒さんへ説明するときには、
「それは○○だと思う。」とか、
「それは○○かもしれない。」とか、
「それはどうなのかわからない。」とか、
みたいな話法で言うとしたら、
生徒さんも不安になるだろうし、
やはり、教えられない、と思うの。

そのことで言えば、ぼくも
学習塾講師として勤め始めたころには、
「それは○○だと思う。」
のように言ってしまったとき、生徒さんから
「思う?」って、つっこまれたこともあって。
そうしながら、そういうふうには
言うべきでは無いんだな、
と、反省したことがある。

かと言って、
ぜんぶがぜんぶ、
「断定」で言わないといけない、
というわけでも無いとも思っている。

完全な答えが決まっているときには、
断定で言うべきと思うけど、
そうではないときには、つまり、
いろいろな筋道があるとき、とか、
いろいろな可能性があるとき、とか、
いろいろな考えかたがあるとき、のような、
断定をすることによって、その物事が
固定してしまうことにも成りかねないような場面では、
あえて、断定せずに
伝えることも大事かなあ、と考えているの。

そういうふうにして
生徒さんへと伝えるときには、
「それは○○だよ。」のような断定だけでなくって、
「ぼくはそう思う。」とか、
「ぼくはそう考える。」とか、
「じつは、けっこうわからないけど、」
というふうにして伝える場合もあれども、
はたまた、もしくは、たとえば
「ぼくが中学生だったときには、
  先生からこう教えてもらった。」
というふうにして伝える場合もある。
つまりはさ、世代を超えての
「伝言ゲーム」のようにして。

実際にそう教えてもらったことを
伝えるような伝え方のほうがさ、つまり、
「ぼく自身の考え」というよりも
「ぼくの先生からの教え」としたほうが、
説得力が増すんではないか?!
と思いながら、これを言い換えるならば、
生徒と先生との関係とは、
生徒と先生の「二者面談」ではなくって、
生徒と先生と先生の先生の「三者面談」なのでないか、
とも思ったりもするけれども。

そんなふうに考えてみるとね、ある意味では、
「ぼく自身の考え」なんてえのは、
じつはひとつも無くって、
ぼくが持つすべての考えとは、
誰かによって伝えられたもので、つまりは、
「考え」とは「伝言ゲーム」のごとく、
なのかもしれないなあ〜。

もしかしたら、その
「伝言ゲーム」が、
えんえんとつづきながらの、
今の現在なんだろうか?????

令和5年4月30日


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