最後の親鸞以後

宿業。

前回noteのつづきです。)

では、まずはこの、吉本隆明さんの
講演「『最後の親鸞』以後」についてのことを申しあげます。
講演が行われました日時は1977年8月5日、
主催は、真宗大谷派関係学校宗教教育研究会、
会場は、新潟県妙高市の東本願寺池ノ平青少年センター。
とのことでして。

講演では、吉本さんの著書『最後の親鸞』より以後で、
吉本さんが「親鸞聖人」について考えられたことを
お話しなさいます。

そのなかでもね、前回noteでも申しあげました
ぼくが(うわぁー!)と想った箇所のところを、
これより、すこしずつ、すこしずつ、
ゆっくりじっくり聴いてゆくです。。。

善悪ってのは、人間が、あの。あの、今まで、そのね。悪を進んでやっちゃいけないのか、とか、良い、とかっていうふうに、そういう論議をしてきた、と。あの、まあ、してきましたけどもね。あの、ここでもそうですけどね。
【チャプター10「 <善悪>の問題 ─ <宿業>という考え方」1:52〜】

「善悪とは、人間は今まで『悪を進んでやってはいけないのか?』や『良いのか?』という論議をしてきた。」

善悪とは?????

そんなことを言うけど、本当に言ったら、人間…。あの、人間の善悪なんてのはね、その人の意志で以って出来るね、あの、善悪なんてのは、絶対に無いんだよ。

「でも、ほんとうを言えば、その人の意志でもってできる善悪なんてぜったいにないよ。」

ほんとうを言えば、
そのひとの「意志」でできる善悪なんてない。。

その、もう、毛の先ほどのね、あの、善…。善であり、悪でありね。全部、それはね、宿業(しゅくごう)なんだよ。

「毛の先ほどの善であり悪であり、それはぜんぶ『宿業』なんだよ。」

宿業…。なんだか、
むつかしいことば。。。

つまり、あの。もう、幾世代…。つまり、幾世代の過去からね、幾世代の未来に渡りね。そういう、あの、その、生命…。まあ、うん、そういう言い方すると、いけない。通俗的なって、いけないんですけどね。

「つまり、幾世代の過去から未来に渡り、」

そして、なんだか、ここで吉本さんおっしゃる
通俗的になっていけない、
という言い方がなんだか印象的だなあ。。。

そういう、あの、以前からのね。そういう一種の、あの、契機で以ってね。あの、たまたま、ある意味では、あの。悪意が出てきちゃったり、行いをしちゃったり、善の行いをしちゃったりする、っていうことであって。

「そういう一種の契機でもって、ある意味ではたまたま悪や善のおこないをしちゃったりする。」

一種の契機でもって、、

それ以外の善悪なんか、絶対にあり得ないんだよ、って。

「それ以外の善悪はぜったいにありえないよ。」

‥‥というところまでを聴きまして、
次回noteへつづきますー。

こんな感じで、すこしずつ、聴きます。。。。。

令和元年6月9日


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