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比喩について。(「似ている」篇)

きのうのブログではね、比喩のことについて
考えていることを書いてみたのですが、
今回ももうすこしだけ、そういうような
比喩について書いてみたい。

きのうもすこし申しましたが、
比喩にはいくつかの種類があって、
そのうち代表的な比喩を挙げるとすれば、
「直喩(明喩):シミリ」と、
「隠喩(暗喩):メタファー」があると存じます。
前者の「直喩」とは、たとえば、
【のような】や【ごとく】や【あたかも】や
【さながら】や【まるで】や【たとえば】や、
のような語句が使われる比喩、また、
後者の「隠喩」つまり「メタファー」とは、
それらの語句が使われない比喩のこと。

という説明を見ても、ぼくは、
あんまり納得ができないの。

いや、直喩のほうはわかるよ。

でも、隠喩のほうはね、直喩のような
比喩を示す語句が使われないんだから、
どうやって、そのことばが
比喩なのだとわかるの? つまり、
どうやって、そのことばが
メタファーなのだとわかるの?
って考えてみると、ぼくとしてはさ、
メタファーのことって、じつは案外、
結構、複雑なのではないか?!
とも感じてしまうんだ。

半ば強引にね、ことばを
分けてしまうとすれば、ことばには、
「比喩のことば」と、
「比喩ではないことば」とに分けられる、
とする。そして、
「比喩のことば」には、
【のような】のような語句が使われる「直喩」及び
そのような語句が使われない「メタファー」があり、また、
「比喩ではないことば」というのは、
比喩が使われない「直接的な言い方」になるかと存じますが。

このときにね、これら三つのうちでは、
比喩の語句が使われない「メタファー」と、
比喩の表現が使われない「直接的な言い方」とでは、
ことばの見た目的には、どちらとも
似ている、と申しますか、つまり、
「メタファー」も「直接的な言い方」も
(比喩の語句及び表現が)「使われない」のだから、
もしかすると、たとえば、
「メタファー」の表現を「直接的な言い方」だ、と、
そしてまた、逆に
「直接的な言い方」の表現を「メタファー」だ、と、
勘違いしてしまうこともありえそう。

「直喩」は、いいの。つまりはさ、
「直喩」は【のような】のような語句が使われるんだから、
それを読んだ(見た・聴いた・鑑賞した)ときには、
このことばは比喩だ! ってえのは、
一目瞭然なのだから。

でも、そうではないことば、つまり、
「メタファー」と「直接的な言い方」とでは、
ある意味では「似ている」から、おそらく
確実で懸命で完璧な読者だったならば、
「メタファー」はメタファー、
「直接的な言い方」は直接的な言い方、
って見分けられるとしても、ぼくの場合は
そんな読者だとも言いがたいから、それらの表現を
見落としてしまうこともあるんだろう。。。

たとえば、物語の中で
「塔」が登場すれば、それは
男性器の象徴、はたまた、
「洞窟」が登場すれば、それは
女性器もしくは子宮の象徴である、というのも
よく言われることだとも思うのですが。

とは言ってみても、すべてがすべて、
「塔」は男性器であり、
「洞窟」は女性器及び子宮である、という、
メタファーの表現である、
とも言えないと思うけれど、たとえば、
作者側はそう思われながら創作したとしても、
鑑賞者側がそう思わないやもしれないし、その逆に、
作者側はそう思わず表現したとしても、
鑑賞者側がそういうふうに考えてしまう、つまり、
勘違いしながら鑑賞することもあるのでしょう。

そういうときにおいて、
どれがただしい解釈で、かつ、
どれがよくない曲解なのか?
ってゆうのも、ぼくは、なかなか、
むつかしい問題だなあ、って思うんだけどね〜。

もっと言えば、たとえば、
作者側が意図しないところで、なにかの
「メタファー」が表現されてしまっていることも、
あるやもしれないなあ。
そういうのってば、でも、
とってもこわいことだし、かつ、
おもしろいことでもあるなあ、とも思われる。

もしかしたら、この
ぼくのブログの内容だってもね、
なんらかの意図しない「メタファー」が、
あったり? 無かったり?? 中臣鎌足???

令和5年7月21日


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