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ひとりの時間をもつということ。

ぼくは、20代半ばごろから30代半ばごろの数年間、
仕事もせず、半引きこもり的に、つまり、
お買い物などで自宅から外へ出ることはあるとしても、
基本的には、家と部屋で居る、
という日々を過ごしていた。

そこまでへ至る経緯を簡単に書いてみると、まずはさ、
ぼくは大学新卒で就職した会社を約半年で辞めて、
その次の春からは専門学校へ二年間通いまして、
専門学校卒業後には就職したけれども、
その会社もまた、一年と経たず辞めたんだった。
それでね、ぼくが思ったことは、
このまま就職活動をして会社で勤めたとしても、
また、おんなじことになるだろうなあ。
ならば、今いちど、じぶん自身のことを
きちんと考えられる時間を取りたいなあ、
と考えたんだった。

そのときにはさ、そういうような
じぶん自身のことを考えようとしたり、また、
本を読んだり、音楽を聴いたり、
映画を観たり、美術館を訪れたり、
なにかの作業をしたりして過ごしながら、
あるころ、あるご縁があり、
現在では市内の学習塾にてパート契約の
塾講師として勤めているけれども。

今、考えてみれば、その
半ひきこもり的な時間があったからこそ、
今のじぶんがある、ってえのは、
ぜんぜんわからないし、それが
よかったのかどうか、とか、もしくは、
その時間によって、じぶんが
なにかを得たのかどうか、というのも
まったくわからないけれども。
でも、そういう時間を取らなければ
生きてゆけなかった、とゆうか、
そういう時間を取らざるを得なかった、
ってゆうふうには思うのね。

その時間を過ごすというときに、
ぼくの中でのバイブルのようだった書籍は、
吉本隆明さんの『ひきこもれ』だったのですが。

つまり、この書籍の中では、
ひとりの時間をもつことによって
じぶん自身に通じる言語を獲得する、
というようなことをおっしゃられていたとぞんじますが。
その時期、そういうような
「じぶんのことば」みたいなことを、
ずっと、想っていたやもしらないなあ。

たとえば、ぼくは、
だれか他人と話す、というのが、
きらいとかではないんだけれども、
すこし苦手な感じがあって。
この「苦手さ」というのはさ、
こどものころ、つまりは、
小学生とか中学生とかのころには
そうでもなかったような気もするけれど、
だんだん、おとなになるにつれて、
他人と話すのが、こわくなってしまった。
たとえば、だれかから
なにかを言われるのが、こわいし、
その逆に、じぶんが
なにかを言うことだっても、
なにを言えばよいかわからなくて、こわい、とか。
なにかを言ったあとで、
相手からどう思われるか、が、こわい、とか。
つまり、言語によるコミュニケーションが
こわい、ということやもしれないけれども。
ならば、吉本隆明さんのおっしゃるような、
コミュニケーション以外の言語を
じぶんの内で育むことができたら、
と思ったんだった。

でもね、そういうような数年間を過ごしながら、
それからさらに数年の時が経た今、
そのなにかを克服できた、
ってゆう感じは、ないっ!!!

それでも、なんとゆうか、
じぶんなりに、なんとか
やってゆけたい、という気持ちを
もてるようには成れたやもしらないか。

コミュニケーションによるこわさって、
たぶん、たとえば、
だれかからなにかを言われたときに、
じぶんの思いもよらないなにかを、
思ってしまったり、
思いついてしまったり、
言ってしまったりすることが、
こわい、ということだとも思うですが。
そういうような、
他人とのコミュニケーションによって、
じぶんの思いのよらないじぶん自身が、
引き出されてしまう、というか。

そのときにね、今でもぼくは
「こわさ」も感じるけれども、
たとえば、この場面では、
どういうじぶん自身が引き出されるんだろうか、
ってゆうような、興味、というか、つまり、ちょっと
「たのしみ」も感じられるような気もしているの。
いや、でも、ほんとうのところはさ、
どうかわからないんだけどねえー。

今でもなお、及び、これからもなお、
吉本隆明さんのおっしゃっていた
じぶん自身に通じる言語、
というのを、考えていたいんだなあ〜。

令和5年2月21日


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