表紙17

其の四十一 のっぴきならない。

《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(2008年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》

こんにちはー。きょうも、こうえんを聞いてゆきます。

前回noteでは、「(森鴎外の小説作品『半日』の)主人公には奥方がいて。この奥方は、立派な娘さんで。かつ、美人であったと言われております。それからもうひとり、母親がおります。母親は、幼児から鴎外をかわいがり一方で。鴎外が世間からあまねく知れ渡ってからも、鴎外の身辺の世話から何からよくやってくれる。そういう親であったわけです。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。

それじゃー、つづきを。。。

ところで、奥さんのほうは立派な家の立派なところの娘さんなんですけど。あの。自分の役割、自分が、えー、あの。夫婦として自分がやるべき役割っていうのまでも、侵入して、母親が世話を焼いちゃって。(チャプター08 / 森鴎外と「半日」_2:07〜)

奥さんの側は、義母が夫婦としてやるべき役割にまでも入ってくるのが、

自分のやる場所はどこにもない、ということが不平で。

不平で。

あの。両者のあいだに、なんと言いますか、のっぴきならないと言いましょうか。もうあのお母さんとは、一緒に、顔を見るのもイヤだし、食事をするのも一緒にするのもイヤだ。って言うふうに、夫人のほうはそういうふうに言いだしますし。

ふたりのあいだには、のっぴきならないふんいき。

母親のほうは、それほどそういうことに敏感でなくて。あの、えー、あの。やはり依然として、奥さんのやるべき領域まで、自分が。こどもである鴎外の、息子である鴎外の、世話を焼く。っていうようなことをやって。

でも、母親は、依然として息子である鴎外の世話をやいて、

もうお互いに、もう口をきくのも顔を見るのもイヤだ。っていうふうになって。

もうおたがいに口も顔もいやだ。となって、

で、鴎外…。そのときに鴎外は、どういうふうに考えたか? って言うところは興味深いんですけど。鴎外の書いたその作品、これは僕の言葉じゃなくて、鴎外の書いた作品そのものの言葉ですから、それは自分でちゃんと自覚のうえで書いてるわけです。

そのとき、鴎外はどーいうふうに考えたのか?!

ああー。なんとなく、かなりキツイ状況‥‥。んでも、なんだかおはなしはちょっとおもしろそう。このつづきは次回noteで聞きます。きょうも、雨。。。

平成28年9月24日



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