見出し画像

困難な批判のコミュニケーション。

前回noteでは「批判」と「否定」について、
前者の「批判」とは、よく読んだり
よく見たりよく聞いたりすることによって
その対象についてよく考えること、
後者の「否定」とは、
その物事を認めないこと、
というのを申したのですが、とは言ってみても
「批判」には、やっぱり、どうしても
「否定」的な要素があるとも思う。

このことで思い出すのはね、ぼくは以前
専門学校でグラフィックデザインを学んでいたですが、
あるとき、あるクラスメイトが
学生作品を応募するコンペの作品を制作しようとして、
彼は写真を取り入れたアイディアを考え、
その写真を撮影したいため、学年主任の先生へと
校内のスタジオを借りたいと申し出た。
彼は先生に自身のラフ案を示しながら
こういう写真を撮りたいのでスタジオを使わせてください、
と伝えると、先生は、彼の案を見ながら
スタジオの許可よりもまず先に
「これ、本当につくる意味あるの?」
とおっしゃった。そして、彼は
(え?)と思うものの、結局、許可をもらい
スタジオへと行き彼の考える写真を撮影した。

このとき、ぼくも
彼のとなりで先生のことばを聴きながら、
(こわっ!!!)って思いつつ、
でも、おそらく先生は、
彼のアイディアはまだアイディアとして至っていない、と、
一瞬で見抜いたのではないか? とも感じてきて。
これって、逆を言えば、彼だけでなくて
ぼく自身にも当てはまることなのだから。
つまり、デザイン学生として
アイディアをきちんと考えることが、
できるようにならなければ、と、感じたんだった。
(ちなみにその後、彼は
当初のアイディアどおりに作品を完成させて、
コンペへ応募したものの、先生のご指摘のごとく
落選したと記憶しております。)

このことと似たようなことでまた思いだすのは、
前回noteでは雑誌『広告批評』のある号での
天野祐吉さんと糸井重里さんの対談のことを
申したのですが、このつながりより申しあげますと、
糸井さんが主宰されるウェブサイト
「ほぼ日刊イトイ新聞」の編集部内では、
乗組員さん(ほぼ日のスタッフさん)が
ある企画を考えたとき、誰かが
その企画をおもしろくないと感じれば、
「それってほんとうにおもしろいの?」
と訊ねる、というお話しを聞いたことがございます。
つまり、ある企画を考えて伝えたとき、
それを聞く糸井さん及び仲間の方々が
おもしろくないかもしれないとのように思われたら、
「それってほんとうにおもしろいの?」
というふうに訊ねる、とのような、このことの
実際における具体的なことは存じないのですが、
そういう社内の慣習のようなものやもしらない。

でもなんだかたとえば、上で挙げました
「これ、本当につくる意味あるの?」及び
「それってほんとうにおもしろいの?」ということばって、
「否定」の意味合いはあったとしても、でも、ただ
「否定」をしているのではなくて、そこには
「批判」の目があるのではないか、と思うのよね。

そうとは考えてみても、やっぱり
「批判」というのはこわいよなあ!
って思いつつ、でも、もしもそういうような
「批判」として伝えられたとすれば、ぼくは
そのことばを聞くことができたら、と思いたいけれども、
なかなかむつかしいとも思える。

「批判」というコミュニケーションって、
やはり、非常に困難だなあとぞんじます。

令和6年1月25日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?