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浅はかと塩の詩。

物事を考え出すと、それも、
深く考えれば考えるほどに、
どんどん、じぶんの考えが
深刻な方向へと進んで行ってしまうなあ。

深く深く考えることも、
とっても大切なことなのだとしても、
じぶんの考えを、より
深いところに刻みこむみたく、
深刻に成ってしまうぐらいならば、
ぼくは、浅くありたい。

たとえば、
深くもなく、厚くもなく、重くもなく、
浅く、薄く、軽く、というような
浅薄、及び、軽薄、つまり、
浅はかであり、且つ、
軽らかであるならば、
もう、いっそのこと、
軽んじられても、よい。

薄っぺらで、よい。
つまりは、
ぺらんぺらんでありたい。

重厚なんて、もってのほかだ。

なんなら、
濃厚で無くてもよいさ。

薄味がいちばんなのだ。

でも、
薄味とは言えども、
薄すぎて、薄すぎて、薄すぎて、
味が何ひとつ感じられないのも、
やっぱり、イヤかも?!
ってゆうようなそんなときにはさ、
ほんのひとつまみの塩があればよい。

その塩とは、海の
深い深いところにある
海洋深層水の栄養塩のごとく、
生物にとって、
とっても大切なものだ。

ともすれば、ぼくは、そんな
海洋深層水の塩を取って来るかのように、
深く、深く、深く、潜れたら、
とも思ってしまうんだなあ。

そこまでの
深海へと潜るためには、
まずは、浅瀬で
深呼吸をしたい。
そして、いざ、海の中へ、
執念深く、思慮深く、用心深く、
探求できたら。

その道中で出合ったシーラカンス氏へ、
ごあいさつをするため、
ぼくは、深い深いお辞儀をしたい。

令和5年5月21日


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