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空気を「読む」ことはできるのか?

「空気を読む」って、たぶん、ぼくだっても
行なっているところもあれば、
まったくできてない場面もあると思うですが、
よくよく考えてみれば、それがさ、
どういうことをすることなのか、
ぼくはよくわかっていない。

ふと思ったけど、
「KY」ってゆうことばはさ、このごろ
あんまり聞かなくなったような気もするけれど。
たとえば、この「KY」の字面の中には
「Not」的なものが入っていないので、
「空気が読めない」にも、
「空気が読める」にも、
どちらの意味でも取れるようにも思えるけれども、
それが、でも、
「空気が読めない」のほうになっているのは、
どうしてぇー?????

「空気を読む」って、たとえば、
その場の雰囲気だったり、
相手の気持ちだったり、
集団の気分だったり、
を、的確に理解して、
じぶん自身の行動へと結びつける、
みたいなことだと思うのですが。
そのような雰囲気や気持ちや気分を
「空気」と表現して、そして、その空気を
「読む」ってゆう、つまりはさ、
「見る」とか、「聴く」とか、「嗅ぐ」とか、
「捉える」と、「察する」とか、「感じる」とか、の、
いろいろな動詞がある中で、
「読む」がチョイスされた、ってえのが、
なんだか独特だなあ、と、あらためて思うの。

「読む」の意味として、広辞苑第七版では
【(内面に隠れていることやこれから起きることなどを)
 推しはかって知る。推察する。見通す。
「腹を—む」「顔色を—む」「敵の作戦を—む」】
とも出ているし、はたまた、
「行間を読む」ということばもあるとはぞんじますが。
「空気」という、つまりは、
ことばになっていないものを、
「読む」って、
余程、感受性が豊かでなければ、
むつかしい、というか、
できがたい、というか。

それをさ、ときには、かつて、
「空気を読め!」と説教されたとしても、
ぼくなんか、「空気」はおろか、
「行間」も、「腹」も、「顔色」も、さらには
「文字」すらも「読む」のがむつかしい、
って思うときもあるんだから、
こまってしまうのよねぇー。

その場の空気を読むことはできなかったとしても、
部屋の窓を開けて、この体で、
風を読めたら。

令和4年7月23日