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受動態の沼から。

「(○○)される」的な、
受動態のことばを使おうとするときには、
ちょっと気をつけたいなあ、とは思っている。

受動態って、つまりは、
受け身のことだから。たとえば、
「叱られる」とか、「怒られる」とか、「憎まれる」とか、
「褒められる」とか、「評価される」とか、
というのは、どうしても、
相手側のほうが主体になってしまう感覚もあって。
そんな受動態を使うことが、癖になってしまえば、
じぶんが相手に操られてゆく。
ようなこともありえそう。

もっと言えば、
「疲れる」とか、「くたびれる」とか、
「売れる」とか、「救われる」とかも、
そうなのかもしれないけど。

これは、でも、たとえば、
「いじめられる」というときには、
相手のほうは何も悪くなく、
じぶん側のほうに問題がある、
みたいなことを言いたいわけではなくて。
えーっと、なんて言うんだろうか、、、
相手のほうが主体のようになってしまう
受動態の考え方から、その沼から、抜け出して、
じぶんを取り戻せたら…。
ってゆう願いなのですが。

ここで、ひとつ問題になってくるのは、
日本語の「される・れる・られる」って、
受け身以外にも、可能や尊敬の使い方もあるから、
ややこしいの。

例を挙げてみると、
「食べられる」と言えば、
だれかに「食べられちゃう」なのか、
じぶんが「食べることができる」なのか、
目上の人が「お食べになられる」なのか、
ってゆう意味の変わり方をすると思うけれども。

なので、「される・れる・られる」をね、
ぜったいに使わない、というわけでもなくって。
それはさ、どちらかと言えば、
「受動態のことば」を使おうとするときには
ちょっと気をつけたい。みたいな???

あとは、でも、ほかには、
「ら抜きことば」の問題もあって。
ぼくはなるべくならば、
「ら抜き」は使わないようでありたいな。
と思うほうなんですが。たとえば、
「食べられる」ならば、
「食べれる」は「ら抜き」だけれども。
「言われる」とかならば、
「言わられる」ってゆう言い方は無いっぽいから。
「ら抜き」の逆で「ら付け」になってしまうのか?!
みたいなそういうようなもろもろを考えると、
ややこしいわ、って感じられる。

うえでもすこし記したですが、
「売れる」のか、「売られる」のか、「売る」のか、
ってえのもね、意味としては、
だいぶ変わってくる。と思われる〜。

令和3年6月27日


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