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歴史について考えてみる。

前回noteでは、「歴史」とは、
じぶんも、両親も、祖父母たちも、
生まれる前だった時代のことが、わかる、なんて、
すごい、というか、不思議、というか。
そして、その歴史というものが、
どうしてわかるか、と思えば、おそらく、
当時の文献や資料や遺構や痕跡によって、
記録が残されているからなのでしょうか。
みたいなことを書きまして。

そのような文献とは、
文章で記されている、
ともすれば、その文章って、
だれが、どのようにして、
どういう目的や理由や動機によって、
記されたのかなあ?
というのはさ、その文献によっても
いろいろあるともしても、たとえば、
その方が記されているその文章が、
ある未来の時代において
「この時代の歴史の資料となる」と、
その文章を書かれた方は、
意識されていたのでしょうか。

って考えるのもね、
たとえば、ぼくは今、こうして
noteへブログを書いているけれども。
ぼくのブログの内容がいつかの未来において
「この時代の歴史の資料となる」とは、
とうてい思えないもん。

はたまた、
「文章を書く」ことについて、
時代によってもちがうとはぞんじますが、それは、
どのくらい開かれていたのか、
というか、言い換えると、
どのくらいの人が、日常的に、
ことばを記していたのか、
というか、つまりはさ、
どういう人が、どういうことを、
どのようにして書こうとされていたのかなあ。
そして、その当時の文章を、
歴史の資料なのだとして読まれる方は、
どのような判断によって、
文献を読まれるのでしょうか。

たとえば、歴史のことで言うと、
「鎌倉幕府」の年って、
【いい国つくろう鎌倉幕府】という
「1192年」だとされていたのが、あるころから
「1190年」とか、「1185年」とか、「1180年」とか、
とも言われるようにもなって。
それらについて、もしくは、
あらゆる歴史の出来事について、
ぼくはくわしいことは何もぞんじないので、
なんとも言えないんですが。
でも、そういうふうに考えてみるとね、
歴史の教科書に書かれている
すべての出来事について、
これから先、もっとわかってくることも、
あるとは考えられるとしても、とは言えども、
これまでわかっていることでも、それが
「わかる」までには、
とほうのない研究があって、その研究の結果、
教科書の記述になっているんだろうなあ、
って、想像するのよね。

すべての歴史のことには、
なにかしらの「根拠」がある。
その「根拠」とは、
完全なものではないにしろ。

なんだか、ブログ書きながら、
ぜんぜんまとまらなくなっているんですが、
歴史とか、文章とか、について、
こんなことを思ってみましたっす。

令和4年11月12日


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