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ことばにならないお願いごと。(「耳を開ける」篇)

昨日、【恥】及び【耳】という漢字について
白川静先生の『常用字解[第二版]』で調べながら、
そのなかでとくに印象的だったのはね、
【耳】の字は「耳の形」であること、そして、
【耳】の字形が入っている【聖】とは
「祝詞を唱えて神に祈り、
 神の声、神のお告げを聞くことができる人」、
同じく【耳】が入っている【聡】とは
「神のお告げをかしこく理解すること」
とのようにご説明なされていたことなのですが。

ここで言われている「神の声(お告げ)」とは、
ぼくは特定の宗教の信心者でも無いので、
どういうことなのかよくわからないと言えば、
よくはわからないですが、でも、ある意味では
わかるような気がすると言えば、
ちょっとわかるような気もするの。

たとえば、神社を参拝するときには
二拝二拍手ののち手を合わせて祈り、
一拝をしてお参りを行う。
このときの「祈る」という行為には、
心の中で「お願いごと」を想い、つまり
神様に伝えるようにしながら、その想いを
神様に聴いてもらう、という行動をしている。
そしてまた、その同時に
神様からの「声」を聴こうとする、
という意味もあるのだと聞いたことあるのですが。
つまりはさ、「手を合わせる」というふるまいとは
口のあたりで両手を合わせて軽く目を瞑る、
このときには、いかにも
「耳」の感覚が強くなるような動きとなっている。

もしくは、同様に
神社でお参りをする場面ではね、
参道を歩いているときには、スマホ等で
イヤホンで音楽を聴いていたとしても、
本殿へ到着してお祈りをする場面では、
全員が全員そうするかどうかはわからないけれども、
おそらく、そのイヤホンを外してお参りすると思うの。
もしも仮に、神社のお参りとは
神様にお願いを「聴いてもらう」だけならば、
作法や礼儀等は別として、
イヤホンで音楽を聞いたままでも
お願い(お祈り)をすることはできる。けれども、
さすがにイヤホンは外すということは、そこには
「耳を開ける」という意味があるような気がしていて。
つまり、そんな「耳を開ける」ということは
神社の本殿の奥の奥のほうからの
神様の「声」を聴こうとしている。

科学的に言うとすれば、
神社で参拝をしたとしても、
本殿の奥のほうから、
神様の「声」は聴こえないんだろう。

でも、神社でのお祈りが
お願いごとを心の中で想うだけでなくって、
神様とコミュニケーションを取ろうとする、
みたいなことだともすれば、ただただ
お願いを言いっぱなしで終わるのではなく、
そのお願いが叶えられるところまで、つまり
「叶えられる」ということは、いわば、それは
神様の「声」を聴く、であるとも言えるかなあ。

宗教に関することはぼくはよく存じないですが、
たとえば、参拝でのお祈りにおいて
何かのお願いをしなかったとしても、
神様はぼくら参拝者の心の中で想っている
ことばにならないお願いごとを、
聴こうとなさっておられるやもしらない。
そしてまた、その
ことばになっていないお願いのお返事として、
神様は、さらにまた
人間のことばにはなっていないおことばを、
ぼくら参拝者へと語ろうとなされている。
その「声」を、どうすれば
聴くことができるのかどうか。
というときのその一番の姿勢が、
「手を合わせる」なんだろうか?

令和5年9月25日


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