其の九十六 言えるだけなわけです。
《吉本隆明さんの講演『芸術言語論 −沈黙から芸術まで』(平成20年7月19日@昭和女子大学人見記念講堂)を、ぼくが毎回ほんのちょっとずつ聞いてゆきながら、あらためてどんなおはなしだったのかを思いかえしてまいります。》
こんにちは。さて、ききます。
前回noteでは、「そういうこと(手直しをして労働価値を多く加えること)と芸術の価値は関係ないところに存在する、ということは言うまでもない。その価値とは、自己表出と自己表出が出会うところにしか求められない。出会う、というのは、偶然である。偶然以外には、芸術は、価値を強要することもできないし、否定することもできない。もちろん、たくさん売れたから価値がある、とも言えないし。たくさん売れたからダメだ、とも言うわけにいかないんですよ。」と吉本さんおっしゃるばめんでした。
つづきっす。。。
あの、えーと。知らないけど、僕はこれは知らないけど。要するに、『カラマーゾフの兄弟』っていうのは何十万単位で売れた、っていう。それで、こうだからこうでこうでダメか? って言ったら、そんなことはないですよ。(チャプター13 / 時間をかけるほど芸術的表現は価値を増大するか_6:50〜)
「たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』という小説が何十万部売れたからと言って、ダメな作品か?! と問うても、そんなことはないです。」
つまり、それよりも、読み方ですよ。って。
「売れる売れないのことよりも、大事なのは、読みかたです。」
読み方の良い悪いとか、あの。言うことはありうるけど。ありうるけれど。そういう問題はありうるけど。それは、売れた売れない、っていうのは、別だ。
「読みかたのよいわるいを言うことはありうるけれど。それは、作品が売れた売れないという問題とは、別です。」
良いとも悪いとも判定が…、判定する問題ではありませんよ。っていうふうに、言うふうに仕方がない。
「よいともわるいとも、判定する問題ではありません。と言うしか、しかたがないのです。」
‥‥の、ここでの「良いとも悪いとも判定する問題ではありませんよ。」とおっしゃるのはさ、売れる売れないで作品の良し悪しは決められないし、さらにまた、読むひとの鑑賞の仕方だって、ほんとうのところは良し悪しを決められない。
つまり、吉本さんおっしゃる「自己表出と自己表出が偶然に出会う」ということがいちばんたいせつ、っていうことかもとぞんじます。
講演をつづけます。
これは、あの。これは、とても重要なことですから。あの。そこのところをやっぱり。あの。やっぱり、ちょっと僕なんかの考え方からは、注意して下さると…、注意して下さるといいですね。って言うふうに、
「これはとっても重要なことですから、僕の考えかたからではやはり注意して下さるといいですね。と、」
注意して、読む場合に注意して下さるといいですね、っていうくらいのことを言えるだけなわけです。ですけど、そういうことを是非とも言ってみたいと思います。思います。
「そういうくらいのことを言えるだけなわけです。ですけれど、そのことを是非とも言ってみたいとおもいます。」
えーと。なんて言うかさ、この「っていうくらいのことを言えるだけなわけです。」とおっしゃるのもなんだかすごいなー。そこのところへたどりつくまでに、どれだけのかんがえられた時間や形跡があるのか?! って、ぼくはめっちゃ素人だけれども、どことなく恐れ多く感じました。
では、このつづきは次回noteでききます〜。きんよーび!!!
平成28年11月18日
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