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戦争と平和と複雑な理由について。

「平和」とは、
戦争と戦争の間の時期である。
ということを、聞いたことがある。

つまりはさ、今が、いくら
平和の時代とは言えども、
未来の時代では、
どうなるのかわからない。
言い換えれば、このことばからは、
戦争とは、どうしたっても
起きてしまう可能性があるものである、
というふうに解釈ができるとも言えるかなあ。

ともすれば、
これから先、ずっと、未来永劫、
戦争が起きないためにはどうしたらよいか?
を考えるのはできがたいとしても、たとえば、
次の戦争が起きるのを、
なるべく遅らせるためにはどうしたらよいか?
を考える、ってゆうのも、
とってもむつかしいことだとしても、
もしかしたら、それを考えることは
不可能なことではないやもしれないか。

とは言ってみても、ぼくには
その答えはまったくわからないけれども。

戦争とは、
どういうときに始まるか?
というのも、ぼくには
わかっていないけれども。
でも、なんだか、
今のところ想像するからには、
戦争が始まるには、
「理由」が必要なのではないかなあ?!
って思われる。

この「理由」というのは、たとえば、
誰から見ても明らかなものもあれば、
その逆に、
別のある人から見れば、
言いがかり、というか、つまり、
でっちあげかのようなものもあるだろう。
それは、たとえば、
街を歩いているときにおいて
「なに、がんつけてんだよ?」
と言われるかのごとく、
それを言われた側が、ほんとうに
がんをつけていたのかどうか、よりも、
それを言う側が、
がんをつけられた、と感じるのかどうか。
そしてまた、もしくは、
このままゆけばこちらがやられるから、
やられるまえに、やる。
という理由もあるやもしれない。

街での暴行の事件とは違って、
戦争には、その行為を
裁く法律も無いようなものなのだとすれば、
たとえば、そういうような、
戦争を始めるための「理由」を、
いかにして作らないか、及び、
いかにして作らせないか、を、
考えることが重要な気がする。

そして、このたびにおける
安全保障政策の転換の明記、というのは、
ぼくは素人ですので、
かんぜんはことは言えないんですが、
でも、なんだか、
そういう「理由」を、
増やすような方向へと行っているようで、
こわい、と感じてしまう。

反撃能力、とは言っても、
反撃するその理由はどうであれ、
反撃とは、つまり、
攻撃だから。そして、
反撃能力を持つことによって、
抑止力を高める、というのも、
わかると言えばわかるのですが、
そういうような状況になれば、
もう、一触即発のようだ。

戦争とは、
どういうときには始まるのか?
というのは、おそらく、
ありとあらゆる要因が、
複雑に絡み合っているのだと思われる。
そういうときには、でも
「こうしたらすべて解決だ!」みたいな、
単純な解決策、
というのは無いはずで。それはつまり、
ここをこうすれば、
こっちはよくなったとしても、
そっちはわるくなってしまうから、ならば、
そこはどうしたらよいか? でも、また、
そっちはよくなったとしても、
あっちはわるくなる、というような、
複雑さだと思うの。

そんな複雑の状況において、
「こうしたらすべてがよくなる。」
ということばって、やっぱり、
こわいなあ、って感じるのよね。

令和4年12月18日


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