見出し画像

わからないことは、なぜ、わからないか?

わからないこと、というのは
ほんとうにたくさんある。
「わからない自慢」をしたいわけじゃあないけど、
ぼくだってもね、この世界とは
わからないことだらけだと思える。

「わからないこと」は、
なぜ、わからないか? と言えば、
その理由はいろいろあると思うけれども、
それは、たとえば、
説明が少ない、もしくは
説明が無いからなのだと考えられる。

映画でも、小説でも、マンガでも、現代アートでも、
鑑賞をしながら、その内容について
「よくわからない」と思うときには、
そこには説明が少ない、もしくは、無い。
この作品が、
どうして作られたか? とか、
この箇所は、
どういうふうに作られているか? とか、
この場面には、
どういう意味が込められているか? とか、
この場面のこのことは、
どんなルール(約束ごと)で成り立っているか? とか。
そういうことが、その作品の中及び横で
わかりやすく説明されていれば、鑑賞も
わかりやすいけれども、作品によっては
それらの説明が無かったり、及び、隠されていたり、
パッと見では見えにくくなっていたりする。
ある作品からのオマージュであったり、
オマージュのごとく、ある前提を
受け継がれて作られているような場合でも、
説明が無かったり、注意深く観ていないと
見えてこないこともある。

ゲームをプレイするときにでもね、
たとえば、ロールプレイングゲームの攻略で
わからないときには、攻略の
「ヒント」を見つけられない、もしくは
「ヒント」が用意されてないから、
わからない、ということがある。
おそらく、現代のゲームは
そういうヒントもわかりやすくあるやもしれないけど、
昔のゲームでは攻略のヒントが全く見当たらない、
なおかつ、じぶんで考えてもぜんぜんわからない、
みたいなこともたくさんあったと思う。

ゲームをプレイするだけじゃあなくって、
ある作品を鑑賞するようなときにでも、
そのような「ヒント」的な説明によって
わかることもあるやもしらない。

とは言えども、そういうような
「ヒント」的な説明とは、とある謎を
解明しようとするときには有効だとしても、
鑑賞というのは、
それだけじゃあない、とも言える気もする。

きれい、とか、
かわいい、とか、
うつくしい、とか、
なんかすごい、とか、
ちょっとこわい、とか、
よくわからないけどおもしろい、とか、
よくわからないことをじぶんなりに解釈してみる、とか。
そのような、なんと言うんだろう、つまり、
感性のままに感想を想っても、
よい場合だってもあると思う。

逆を言えば、ある説明が
記されていることによって、
その感性が引き出されなくなってしまいがちだからこそ、
あえて、ヒント的な説明が
省かれていることもあるやもしれない。

そう考えてみると、
「わかる」とか「わからない」とかも
どういうことなのかわからなくもなってくる。

学校の勉強だってもね、
「わからない」こともあると思うけれど、
なぜ、わからないか? というのは、
その第一条件としては、
やはり「説明」だと思うのね。
その人に合った説明が、
適切な形で示されていない。

でも、ぼくもたくさん経験はあるけど、
どんなに説明されたとしても、
わからないことだってもたくさんある。
それは、その説明が
適切ではないか、それとも
説明は適切だとしても、その説明を
理解しようとする側の理解する能力を
超えている物事なのか、というのも
よくわからないと言えばよくわからないな。

そういう意味で言うとすれば、
わからないことがたくさんあるぼくは、
理解する能力が著しく低いんだとも思えるし、
つまり、ばかなんだろうけれども。
けれども、わからないなりに
わかろうとして考えることによって、
育まれる感性もあるとしんじたい。

「理解」と「感性」って、
相反するものなのか、それとも
混ざり合えるものなのか、というのも
わからないんだけどね〜。

令和6年7月14日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?