かわりばんこで動けるか。
オセロとか、将棋とか、トランプとか、麻雀とか、のね、
ふたり、もしくは、複数人で対戦するゲームでは、
それぞれの人の番が、
かわりばんこでやってくる。
いや、トランプならば、たとえば
「スピード」だったら、
ちょっとちがうやもしれないけれども。
基本的にはさ、この人の番、次の人の番、
そして、次の人の番、というように、
番が、交代でまわっている。
そういう番ってば、でも、
「対戦ゲーム」だけでなくって、たとえば
人同士の「会話」にでも、
あるんじゃあないか? って思っているの。
会話だっても、
この人の番、次の人の番、
そして、次の人の番、
というような番が、交代でまわっている、
とも考えられるような気がする。
とは言っても、会話における番とは、
対戦ゲームのように明確にはなっていない。
つまり、この手を打てば、
次の人の番、というように、
ルールが定まっているわけじゃあない。
なので、あるときには、
ある人のほうだけが話していて、
ある人のほうは聞き役に徹する、
という状況もあると思われる。
それはそれで、おたがいで、
会話が成立している、と感じているならば、
よいことだ、って思う。
でも、そういう場合だけに限らず、たとえば
「会話は、キャッチボールだ。」
とのようにも言われているけれども。
つまりはさ、キャッチボールのごとく、
こっちの人が投げて、
そっちの人が受けて、また、
そっちの人がこっちの人へと投げる、というような
「番」があると思うのね。
それは、でも、
会話だけでなくって、
あらゆる「行動」において、
そういう番って、あるんじゃあないかなあ。
たとえば、
この行動を起こしたら、
次は、この人の行動で、そうしたら、
次は、この人の行動で、みたいな?!
けれども、それはさ、
ルールにはなっていないともすれば、
状況とか、雰囲気とか、感覚とか、によって、
かわりばんこになっている。
そういうような「番」がさ、
適切に動いているときは、
物事がうまくゆくし、
適切には動いていないならば、
物事はうまくゆかない。
そういうことが、
考えられるかなあ、と思うのね。
いや、でも、こうやって
理屈で書いておきながら、
じぶん自身がうまいこと、
適切に番を動けるか? ってえのは、
わからないんだけれども。
なんだか、考えるのはさ、
これまでうまくゆかなかったときとは、
じぶんの番のときに
じぶんが行動しなかったとき、もしくは、
じぶんの番じゃあないときに
じぶんが行動してしまったとき、の、
どちらかじゃあないかなあ、って思ったのよね。
なんだか、
番、番、番、って言ってたら、
ディープ・パープルの
『Burn』を聴きたくなった〜。
すてぃーる あい ひー ばぁーん
令和4年11月27日