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「理由」について考える。

休むときとか、遅刻したときとか、
なにかの誘いを断るときとかでは、
その旨を言う以外でね、
その理由を添えて言うことが多い。

たとえば、
これこれこういう理由で、
休みます、とか、
これこれこういう理由で、
遅刻しました、あるいは、遅刻します、とか、
これこれこういう理由で、
その日は行けません、などなど。
その理由としてはさ、たとえば、
体調不良、病気、事故、交通機関の遅延、
身内の不幸、先約がある、仕事が忙しい、
というようなことが挙げられると思うけれども。
でも、なんだか、そういう理由って
どんな場合でも必ず言わないといけないかなあ、
って、考えたりもする。

たとえば、遅刻をしたときには、
ある理由で言えば怒られるけれど、
ほかのある理由で言えば、
おとがめなし、という場合があるとして。
そうなると、怒られそうな理由によって
遅刻してしまったときには、
その理由は言おうとせず、なるべく
怒られなさそうな理由を考えようとする。
でも、それで、嘘の理由を言うぐらいならば
本当の理由を言う、とか、もしくは、
理由なんて言わないで、
「遅刻しました。」
だけでもよいじゃん、とも思うの。

逆に、でも、どんな場合においても、
理由を伝えなくてもよい、
というわけでも無いと思うけれども。
ともすれば、
理由を言う場合、そして、
理由を言わない場合、という、
ふたつの場合があるとは思うのよね。

理由のことでさらに考えるとすれば、たとえば、
凶悪事件が起きたときには
容疑者がその事件を起こした理由、つまり、
動機は何か、ということが言われると思うけど。
そのときに、捜査、起訴、裁判等で
理由及び動機を精査することは重要なのだとしても、
ニュースやワイドショーとかでね、第三者のぼくが
その理由や動機を知ろうとすることは、
どこまで必要なんだろう? って思ったりもする。

理由がわかって、その理由が、
納得できるならば、よし、
納得できないならば、だめ、
というふうにして、
分けたい、ということなのかなあ。

理由って、つまり、
ことばで出来ているから、
そのことばで言い表せないことは、
理由としても成立しない。

でも、そんなことばによって、
すべてのことを言い表せるかどうか、
ぼくは、わからない。

そう考えてみれば、
理由とは、なんだろう? ってえのも、
よくわからなくなってくるなあ。

たとえば、この、
ぼくのブログだってもね、
ブログを書くことに理由がいるのかどうか?
ぼくの場合で言えば、
その理由はよくわかんないな。
もしくは、その本当の理由は、
ここでは書きたくない、
のかもしれないけど。。。

令和5年5月28日


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