第13回 それぞれの人の価値観。
[前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(1995年9月3日・山梨県立文学館講堂にて)をゆっくりじっくり聴いてゆきます。ほんじつ、第13回めですー。]
ぜんかいでは「これらは共通して、事物の判断の基準がその基準の本体から離れて、いかようにでも浮かんで行ってしまう。『何が善であるか?』や『何が悪であるか?』を問うたり、『自我っていうのはいったい何だ?』と言ったら、すこぶる曖昧になってしまう。それから、自分が思いがけないことを自分でしてしまう、とか。商品の価格がいかようにでも変わってしまう。」のところでした。
つづきを、聴くー!!!
で、あの。これに対する、また、それぞれの人の価値観がありまして。あの、えー。経済…、経済主体って言いますか、あの、経済主体の企業家なんかはそれ、価格破格だ、とか、デフレ現象が来て、危ない危ない、みたいなこと言うわけですけども。
(チャプター02「疑わしくなった善悪の基準」/3:16〜)
「これに対する、それぞれの人の価値観がありまして。経済主体の企業家は『価格破壊だ!』とか、デフレ現象が来て『危ない危ない!』みたいなことを言うわけですけど。」
消費者の側から言うと、ちっとも危なくないんで。あの、安く、価格破壊で安く、あの、手に入ったほうがよろしいわけですし。
「消費者の側から言えば、ちっとも危なくないので。価格破壊で、安く手に入ったほうがよろしいわけですし。」
なんだか、企業家の側と消費者の側のちがいというのは、わかりやすい。。。
円高で、たとえば海外へ行ったときに、たやすく行けるほうが一般の民衆にとっては大変都合がいい、ってことがあります。
「たとえば円高で海外へ行ったときに、たやすく行けるほうが一般の民衆にとっては都合がいい。ってことがあります。」
ですから、こういうことも、あの。価値観の、それぞれのあれで分かれてしまいます。
「ですから、こういうこともそれぞれの人の価値観で分かれてしまいます。」
なるほどぉ。んでもさ、よくよく思えば、ここで吉本さんおっしゃる「それぞれの人の価値観で分かれてしまう。」ということによって、いろんなことが複雑になってしまうかねぇー。
そういうのが、つまり「現在」ということなのだろうか?????
このつづきは次回noteで聴くでござる。。。
平成30年7月25日