現在をどう生きるか5

第38回 自明の理ではありません。

前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(開催日時:1995年9月3日)をゆっくりじっくり聴きます。講演音源は吉本隆明の183講演より。ほんじつは、第38回めなんだよね。]

どもどもこんにちわ。このごろは、ひたすらこんなようなつづきものをやっておるブログっす。

ぜんかいにはっ、、

「それはもっと声を張り上げるだけのことをしてればいいんだけど、全然してないんだから。

 僕見てて、村山(富市)さん、自衛隊を合憲と認めます、と言ったときに反対した奴なんか一人も居ないわけですよ。

 そんな重大なこと取り逃がして。自らそういう腕力が強い奴ほど強いんだ、っていう序列の中に尻尾のほうで入りながら、自分のほうは何も傷つく必要が無い、って、声を張り上げて核兵器反対だ、ってのはナンセンスでしょう。

 僕だったら、そういう政治的善悪の判断を取ります。原水禁と原水協がずっとやってきたあれってのは認めないですね、僕は。そういう基準を重要だ、っていうふうに思います。」

のシーンを聴いたのよ。このつづきだのよ。。。

なぜか、って言ったら、つまり、あの。それは、現在ってものと…、あ、現代ってものと、現在の違いなんです。
(チャプター05「大江健三郎の進歩したところとしないところ」/7:06〜)

「なぜか? と言ったら、それは『現代』と『現在』のちがいなんです。」

‥‥というこの「現代」と「現在」のちがい、てゆうのはさ、この講演の冒頭から吉本さんおっしゃっていたことだなー。

そして、、

あの、現在っていうのは、あの。あの。あらゆる事柄っていうものが、あの、前からも見なきゃいけないし、後ろからも見なきゃいけないし、横からも見なきゃ、あの、本当のところは分からないよ。っていうくらい、あの、難しいことになっています。

「『現在』とは、あらゆる事柄が前からも後ろからも横からも見なきゃ、ほんとうのところはわからないよ。っていうくらい、むつかしいことになっています。」

ここを聴いて、どうしても、『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を思い出してしまう。。。

それから、あの。何が良いのか、何が悪いのか。あるいは、何をしたら良いのか、何をしたらいけないのか。っていうことも、あの、その自明の理ではありません。

「それから『なにがよいのか?なにがわるいのか?』あるいは『なにをしたらよいのか?なにをしたらいけないのか?』ということも、自明の理ではありません。」

‥‥というこのところでの「自明の理(じめいのり)」ということばの、まずは、先のほうの「自明」ってぇのは「何らの証明を要せず、それ自身ですでに明白なこと。」、そして「自明の理」とは「わざわざ説明する必要もなく、おのずから明らかな論理。」(どちらとも広辞苑第七版より。)とのことです。

だもんでつまり、それらは全く明白ではない。てゆうことですかねぇ。。

あの、万人が…。万人がってのは市民社会が、あの、自明で。これは、あの、悪だ、これは善だ。って言ってることが、必ずしも善悪の基準にならなくなった。っていう。

「万人(ばんじん)が、つまり市民社会が自明で『これは悪だ。これは善だ。』と言ってることが、かならずしも善悪の基準にならなくなった。」

ならなくなって、浮遊しつつある。っていうのが、現在の状況ですから。あの、状態だと、僕は判断しますから。あの、そんなに自明じゃないんです。

「つまり、ならなくなって浮遊しつつある、というのが『現在』の状態だと僕は判断しますから、そんなに自明じゃないんです。」

‥‥自明じゃないんです。。

ってゆうような、こんかいはここのところまでぇー。お盆も過ぎて季節がまた変わってゆく感じではあるんですが。あいかわらず、このつづきは次回noteにて聴きながら。けっきょく、つーいつい、それを文字にする的なブログをやっちまう。

誰のせい? それはあれだ! 夏のせい!!!!!

平成30年8月19日


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