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はさみとしみじみ。

さくじつのブログでは、はさみをね、
手渡すときのことを書いたけれども。
そのブログを書いてから、なんとなく、
この「はさみ」という名称って、
どうして「はさみ」なのか少し気になった。

道具の形状的には、たしかに、
ふたつの刃で「はさんでいる」けれど。
はさみは、「はさむ」ことよりも、
「切る」ほうが重要じゃん。ならば、どうして、
「切る」的な語句ではなくって、
途中の動作の「はさむ」のほうが採用されたのか?

ってゆうふうに考えてみると、たとえば、
お酒のおつまみ、という、
「つまみ」ということばもね、
たしかに、お酒を飲みながら
「つまむ」と言えば「つまむ」けれど。
つまんでから「食べる」わけだから、
「つまむ」ことが最終目的地じゃあない。
でも、つまみは、「つまみ」じゃなければ、
つまみではない。ともすれば、
お酒のかたわらで、しみじみ、
つまみを、つまみたい。

ほかにも、たとえば、
くるみ、というのは、やっぱり、
かたい殻で「くるまれている」から、
「くるみ」なのだろうか。

たたみ、というのは、
たたみを作る工程の中で、
「畳まれる」のだろうか。

おさしみは、
切ることを「刺す」と表現されての
「刺身」なのだろうか。

漫才の中での
「つかみ」によって、
漫才につかまれる。

「鏡」は、べつに、
かがまない。

牛や鮭の「ハラミ」には、
何が孕んでいるの。

「しじみ」のお味噌汁は、
おいしい。どことなく、
しみじみ、するから。

そんなことをば、
はさみを想いながら
しみじみ、考えていた。

令和3年11月11日