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何かを鑑賞したときに。

ある作品を鑑賞することにおいて、
その作品のことを、ぼくは大好きだけれど、
他の人にとっては嫌い、もしくは
ある人にとっては好きだとしても、
ぼくはそんなには好きじゃあない、
という状況がある、とは、もはや
当たり前なのだとしても、考えてみれば
どうしてそんなことが起こりうるのか? って、
不思議と言えば不思議のような気もする。

つまり、同じものを鑑賞したとしても
人によって見え方や感じ方が変わってきて、
そして、好き・嫌いも変わってくる。
そういうような、
その人の「見え方や感じ方」と
その人の「好き・嫌い」こそが、
その人の「個性」でもあるようにも思えるけれども。
人によって、そんなにも
ちがってくるものなのだなあ! と思うと、
そのちがいとは、その人の中において
どういう原理で起きているのか?! ってゆうのも、
よくわからないと言えばよくわからない。

音楽でも、映画でも、漫画でも、小説でも、なんでも、
ある人は好きだとしても、
ある人は好きじゃあない。
さらに言うならば、たとえ
同じ作品を好き同士だったとしても、
世界中のすべての作品において、
好きなものが完全に一致する、ということはない。

酒場では、政治、宗教、そして
プロ野球に関する話しはしてはならない、
という原則のようなものもあるけれども。
(ネット検索してみると、この中には
「民族」の話しも加わるとのことです。)
つまり、お酒を飲む席では、お酒の力によって
批判めいたことを、つよい口調で
語ってしまうこともあるからこそ、
それらの物事に関するような、人間同士の
「ちがい」が明確になってしまって、
ともすれば、けんかも起こりやすくなる。
もしかしたら、そこに
さらにもうひとつ加えるとすると、
「作品」に関する話題だっても、
ある場面では、言えるのかもしれないか。
つまり、作品に関することも、いわゆる
「好き」と「嫌い」とを分ける行為でもありうるから。

そう考えるときにね、ぼくとしては、物事を
「好き」か「嫌い」かで分けるのではなくて、
興味が「ある」か「ない」か、で
考えたいなあと思っているの。
そして、その後者のほうの
「興味がないこと」については、
興味を持ちたい! と思おうとしたい。

興味を持ちたい! と思おうとするときには、
でも、べつに、そのことに対して
深く深く興味を持たなくてもよくって、
浅い興味でも良いから興味を持てたい。
はたまた、何かを鑑賞したときに
「おもしろくなかった」と感じてしまったとしても、
だから、この作品は
駄作である、とは思わないようでありたい。
それはたまたま、今のぼくには
「合わなかった」だけで、だからこそ
駄作であるかどうかはまだわからない。

つまり、そういうような
「今のぼくにはまだわからない」として、
判断を留保するようなスタンスで在りつづけられたら、
ってえのも思うけど、それもなかなか
むつかしいんだろうなあとも思われる〜。

令和6年5月11日


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