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世界の理を知っている。

さくじつのブログでは、ぼくが、この地へと
なんにも知らない状態のままで降り立ったとして、
「季節がめぐること」について、ぼくは
どのぐらいで気づくことができるのか? つまり、
季節には規則性があることを考えられるか?
のようなことを申しあげました。

このことを記しながら、この「この地へと
なんにも知らない状態のままで降り立ったとして」
ってゆうのはさ、なんだか、
子供が誕生する比喩のようにも感じられてきて。
ともすれば、つまり、最初は誰しもが
「季節」つまり「暦」というものを知らない。

赤ちゃんにとって、
誕生したときの季節はいつか? というのは、
人間形成的に結構大事なのではないかと思っている。
春に生まれれば、これから
夏に向けて暑くなる、とか、
秋に生まれれば、これから
冬に向けて寒くなる、とか、
その人が誕生した季節が、その人の
季節感のデフォルト(基本状態)となる。

たとえば、春に生まれた赤ちゃんが
これから夏の季節になってゆくとき、
どんどんどんどん暖かくなる気候のなかで、
生まれたときはふつうだったけど
どんどん暑くなってきて、これ、やばくない?!
って、心のなかで思ったとして、
でも、彼ら彼女らが大丈夫だと思えるのは
両親ないし保護者の人がいるからだと考えられる。
つまり、夏、暑くなってきたとき、
母親が子を、暑くなってきたねえ〜、とあやす。
子は親のこの動作やことばを感じて、
これはふつうのことなんだあ! って思う。

このことって、なにかに
似ているなあ、と思ったのはね、
「なまはげ」かなあ?

「泣く子はいねがー!」と大声で叫びながら、
家の中に「なまはげ」が入ってくると、
子供たちは泣き喚く。
でも、そこにいる大人たちは
ちょっと笑顔にもなりながら、
その光景を見守っている。
このとき、家に突然入ってきた
「なまはげ」を見て、そこにいる大人たちも
子供と一緒にパニックになってしまったら、
子供は恐怖そのものだ。
でも、大人は、これが
「なまはげ」という儀式だと知っているから、
大丈夫であり、そして、だからこそ
子供たちも大丈夫だと思うことができる、
という評論を読んだことがあるのだけれども。

こういうふうに考えてみるともすれば、
「大人」というのは、なにか
すばらしい考えを持っている、とか、
すばらしい行動をできるかどうか、ではなくって、
たとえば、季節とか、儀式とか、つまり
世界のことわりみたいなことを知っている、
というだけで、子供は救われる。

いや、でも、ぼくはさ、
結婚をしておらず、かつ、
子供もおらないので、じぶん自身の
想像でしか語れないですが、
なんだか、そんなことを考えておりました。

令和6年3月5日

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