見出し画像

その相手の「本心」によって。

そして、ぼくが思ったのはね、
相手に対して、もしくは、誰かに対して、
こちら側の意志や考えによって
なにかを「させよう」とするのは、
むつかしい、って言うよりも、そもそも
不可能なのではないか?!
ということなのですが。

たとえば、
この映画を観てもらいたい、とか、
この小説を読んでもらいたい、とか、
この音楽を聴いてもらいたい、とか、
のようなことだけに限らず、
勉強しようとしない子どもたちに対して
勉強をさせようとする、とか、
選挙に行かない人に対して
選挙へと行かせる、とか、
さらにはさ、たとえば、
ぼくの作った作品を、誰かに
お金を出して買ってもらう、とか、
そういうのってのはさ、
「どうかおねがいします!」
と頼んだとしても、
簡単には行くわけもないし、というか、
簡単か、困難か、のレベルではなくて、
ある意味では不可能なことやもしれない。

つまりはさ、
お願いする、とか、頼む、とか、
というような方法だけでなくって、
つよく言う、とか、命令する、とか、
むりやりにやらせる、とか、おどす、とか、
というのはもってのほかだとしても、
それらのほかにもね、たとえば、
これをすれば、
今後、こういうよいことがあるから、とか、
これをしてくれたら、
今度、こういうお返しをするから、とか、
のように伝えて相手に「やらせた」としても、
それは、やっぱり相手の
本心からの「する」というのではない。

のどがかわいている馬を、水のある
池のほとりまでは連れてゆけたとしても、
その馬が水を飲むかどうか、
というのは、こちら側から馬に
むりやりにさせることはできない。
というようなお話しをね、
以前聞いたことがあるのですが。
なんだか、あらためて
このお話しのことをぼんやり思い出しながら、
このことって、じつは、あらゆることに対して
そうなのでないかっ!!!
って思ったりもするのよね。

じゃあ、ならば、
どうしたらよいか?!
と考えてみても、ぼくには
ぜんぜんわからないけれども〜。

もう、なんとゆうか、
その相手の「本心」を待つしかない、というか、
その誰かの「本心」を待つしかない、というか。
つまり、どれだけ熱心になって
願っても、頼んでも、祈っても、告白しても、
だめなものは、だめ。でも、
その相手の「本心」によって、
「する!」や「やる!」や「オッケー!」や
「よいよ!」と言われるならば、
素敵じゃないか。
ともすれば、このぼくだっても、
相手からのことばに対して
ぼく自身の「本心」で言えたならば、
素敵なのではないか、と思うんだよね。

なんてことを考えていたら、なんだか、
ザ・ビーチ・ボーイズの
『素敵じゃないか』を
聴きたくなったじゃないか〜。

Oh, wouldn't it be nice?

令和5年2月5日