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出合いと予祝と崖の上だからこそできること。

昨日のブログでは、先日、ぼくの念願でした
「宮﨑駿監督作品集 [Blu-ray]」を購入いたしまして、
まずはね、その作品のなかから
『崖の上のポニョ』を観たことを申しあげました。

『ポニョ』とは、
波の表現がすごい! と思えるかのごとく、つまり、
海にまつわる物語であり、また、登場する食べ物も
紅茶やラーメンやスープという
水分に関するのが多くって、いわば、
水の映画である、とのように昨日申したですが。
今、あらためて『ポニョ』を観て思うのは、映画の公開は
平成20年(2008年)だったのだなあ、と。
つまりはさ、平成23年、
東日本大震災の三年前に公開されていた。

映画のシーンの中でね、宗介がバケツの中にポニョを入れて
保育園に持ってきたとき、保育園のとなりにある
介護施設の利用者「トキさん」がポニョを見て、
【うえー、いやだ、人面魚じゃないか。
 早く海に戻しとくれ。津波を呼ぶよ。】
【人面魚が浜に上がると津波が来るんだ。
 昔から、そう言うんだよ。】
と言われていたけれども。そして、その後
「トキさん」のおっしゃるように、ほんとうに
津波のごとく大波を呼ぶ嵐がやって来てしまう。
このようなストーリーとは、おそらく、大震災の後ならば
作られなかったやもしれないとも思われるし、
もしくは、震災後の作品であれば
もっとつらい、重たい作品であったやもしれない。

たとえば、宮﨑駿さんが
映画『風立ちぬ』を制作されていたとき、
『風立ちぬ』での関東大震災のシーンを描いた直後に
東日本大震災が起きた、このとき、宮﨑さんは
「フィクションが現実に追いつかれてしまった。」
とのようにお話しされていたと存じますが。
このことから鑑みるとするならば、
ある意味では、『ポニョ』とは
その後に起きてしまう大震災を、
予見していたような作品なのだと考えられる。

『崖の上のポニョ』という作品は、
人間の男のこと魚の女のこが出合う、つまり、
異世界の者同士の「出合い」の物語だと思うけれども、
異世界の者同士が出合うときには、
通常では起こらない出来事が起きてしまう。
その出来事が、『ポニョ』の場合では
嵐と大波と水害であり、そして、このことを
逆に考えるとすれば、そのような
通常では起こらない出来事によって
「出合い」がもたらされる。
なんだかうまくは言えないのですが、
大震災のような、あまりにも困難で
大変な事態の出来事が起きたとき、
でも、その事態と同時に
「出合い」が予感されている。
このことが、つまり、希望である。
と考えるとすると、『崖の上のポニョ』とは
その後に起きてしまう東日本大震災に対して、
あらかじめ祈っている、つまり、
「予祝」の作品なのではないか?
というふうにね、ぼくは今回
『ポニョ』を観て感じたのでした。

そしてまた、海の近くで
大水害に見舞われる宗介たちが住む町の人々が、
みな、力強くて、タフで、明るくて、
その雰囲気を眺めながら、なんだか
勇気が出てくるようにも思えました。

そう考えるとね、さらに、
宗介のお母さん・リサが宗介へと伝えた
【宗介ね、今、この家は嵐の中の灯台なの。
 真っ暗な中にいる人は、
 みんなこの光にはげまされているわ。
 だから、誰かがいなきゃだめ。】
ということばも素晴らしいと思えるし、
そしてまた、たとえば、
「崖の上」だからこそできること、言い換えれば
「崖の上」で無ければできないこと、
というのもあるのだと思える。

その人が、
その場所だからこそ、
できること、を、
それぞれ考えて行動する。

『崖の上のポニョ』をあらためて観ながら、
そういうふうなことを思っておりました。

令和6年7月11日


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