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過去形の夢の話し、だけでなく。

昨日のブログでは、たとえば
「読書」や「予定」についてブログで書くときには、
ぼくは極力、それを終えたときに、つまり、
その本を読み終えたとき、もしくは
その予定が無事に終わったとき、というような、
書き方としては「過去形」で書こうと思っている、
ということを書いたのですが。

このことと似たようなこととして、たとえば、
「夢」を語るときにもね、
読書や予定のときみたいに、
ちょっとばかり慎重になったほうがいいのかも、
と、ぼくは考えているの。

つまりはさ、たとえば、
なにかしたいことがあるならば、
それを、だれかへ伝えたほうが
実現もしやすくなるし、また、
その夢も叶いやすくなる、とはよく言われるけど、
そういう場合もあるとも思うけれども、それは、
すべてがすべて、そうなのかなあ?
というのは疑問に感じることもある。

たとえば、
小説家になりたい、と思う人がいて、その人が
小説を書こうと思っている。この、
「小説家になりたくって、今、
 小説を書こうと思っている。」
という気持ちをね、だれかへと伝えた場合、
その相手としては、
「へぇー、すごい! がんばってね。」とか、
「完成したら、読ませてね。」とか、
言うのかもしれないのですが、
ぼくの経験上では、こういうふうに
じぶんのしたいことを相手へ伝えた場合、
けっこう、そのことが完了しないことが多い、
とも感じられる。ぼくの場合は、
なんだか、それを言ったことによって
なにかが満足されてしまう、
ということやもしれないですが。

でも、そんな場合には、
「小説家になりたくって、そして、
 小説を書いた。」と言えば、
その小説はもうすでに書いたんだから、当然、
そのことが完了しない、ということも無い。
つまり、夢を語るときには、
「過去形」で言えば、
言って、なにかが満足されてしまって、
完了しない、という事態は起きない。

とは言えども、すべて
「過去形」で言うしかない、
ってゆうわけでもないと考えている。

つまりはさ、たとえば、
「今、小説を書いているけれど、
 もうすこしで書き終わる。」のような、
目処が立っているならば、それもやっぱり、
完了しない、という事態は起きにくいだろう。
つまり、文法的に言えば、
「未来完了形」かな。

もちろん、そんな言い方じゃあなくって、
ふつうに夢を語り、そして、
この夢を叶えてゆく人もおられると存じますが、
ぼく個人の感覚としては、
「過去形」及び「未来完了形」で
言ったほうがよいかなあ、と思うの。

夢、もしくは、アイデアって、
「たまご」のようだと考えている。
それを最初に思いついたときは、
「たまご」を産んだ瞬間で、それから
「たまご」の内で夢やアイデアが育ってゆく。
この育つあいだ、まだ育ちきらないときに
「たまご」を割ってしまえば、つまり、
それを語ってしまえば、
その夢やアイデアも死んでしまう。

でも、この
「たまご」の内で無事に育ちながら、
もう外へ出ても大丈夫、というころにね、
「たまご」の内の雛が鳴くのと、
「たまご」の外の親が殻をつつくのが、
同時に行われるような、いわゆる
「啐啄同時」で孵化するとなれば、
その夢やアイデアも実る。

つまり、じぶんの心の内で
あたためることも、
案外、大事かもしらない、
とも思うのよねー。

令和5年6月17日