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早生まれと時間の差について。

ぼくは早生まれの3月生まれで、
だからなのかは知らないけど、
とくに幼稚園や小学校のころは、
周りの同級生たちと比べると、
じぶんがすごいできない、というか、
どことなく劣等的な感覚を持っていた。

4月生まれの人と、
3月生まれの人とでは、
おんなじ学年でも、約一年間、
過ごしてきた時間がちがうから。
この時間の差って、幼稚園や小学校のときでは
かなり大きいと思うのよね。

そして、でも、ぼくとしては、
周りの人と比べたらじぶんができなさすぎる、
というようなことをね、
小さなころから植えつけられたかのごとく、
つまり、ちょっとしたトラウマのごとく、
劣等の感覚から抜け出せられない、ってゆうのは、
じつは今でも持っているやもしれないなあ。

‥‥という話しをね、数年前だったか、
ある同級生に言ったら、彼は、
「いや、もう、この年齢になったら
そんなこと関係ないだろ!」って、
怒られた、というか、
呆れられた、というか、
そんなふうに言われて。
そう言われたのは、けっこう、
ちょっとつらかったのよね。

どういうふうにつらかったのか、
と言えば、おそらく、
だめなじぶんのことを、
トラウマのように考えることによって、
じぶんのだめさをじぶんで赦そうとしている、と、
暗に言われたような気がして、
それが、なんだか、悲しかった。

そういうことはさ、おれだっても
わかってるんよ。でも、
そういうことを言いたいときもあるやん。
それさえも許されないんならば、
この世界、厳し過ぎるやん!!!
って感じたんだった。

でも、それからのその後、
もうちょっと考えてみると、たとえば、
ぼくはその当時30代前半ごろで、
今は40歳なのですが、
この齢になれば年齢差は関係ない、
というのは、ほんとうにそうなのかなあ?
って、あらためて思ったりもするの。

「年齢差は関係ない」
というのを認めてしまったら、つまり、
「昨年のじぶん」と「今年のじぶん」とでは、
なんにも変わっとらん、
なんにも学べとらん、
なんにも成長とかもできとらん、
って言うのと、同じになってしまうじゃん。

「一年間」という時間って、
短いようで、案外、長くって。
そのあいだで、考えたり、憶えたり、身につけたり、
学んだり、変わったりすることって、
いくらかでもあったらなぁ、と、ぼくは願いたい。

そして、子どものときから
ずっと感じていた感覚って、
大人になっても、けっこう無くならないもの、
というのも思ってたい。

なんとゆうか、そんな
ぼくのような人にとっては、
「大器晩成」ということばがさ、
ほんと、救い、というか、
有難いのよね〜。

令和4年8月29日


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