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線路はどこまでもつづくとしても。

行こう、と思えば
どこへでも行ける。
それこそが、つまり、
「自由」である!
とも言えるやもしらない。

とは言えども、
行こう、と思わなければ
行かないのだろうし、もしくは、そこへと
行くためのお金や時間が無ければ
行けないし、かつ、ご縁が無ければ
行くこともむつかしいし、はたまた
行くための計画を立てるのも大変なのだし、
行ったら行ったで疲れてもしまうんだから。

線路も、道路も、
海路も、空路も、
どこまでもつづくとしても、
どこまでもはなかなか行かれない。

なおかつ、たとえば
県と県とのあいだの「県境」ならばまだしも、
国と国とのあいだの「国境」を越えるには
パスポートやビザも必要になってくるし、
また、外務省が危険情報及び退避勧告を
伝えられる地域への渡航は安全では無く、
そして、山岳や深海などなどの場所、さらには
宇宙へと行くことも非常に危険なのでしょう。

テレビゲームのロールプレイングゲームでは、
主人公の勇者たちが世界征服を目論む悪の魔王を倒す、
というストーリーが主なのだと思うですが。
このときにね、勇者たちは
世界各地を巡りながら、経験及びアイテムを得ながら、
各地域で起こっているトラブルを解決したりしながら、
魔王の居る場所を目指してゆく。
ってゆうふうに考えるとしたら、つまり、
世界を救うためには世界各地を巡ることが
必須のようにも感じるけれど、でも、
現実問題ではどうなんだろう?
やはり、世界を股にかけるような人が
世界を救うし、言い換えれば、
世界を股にかけなければなんにも救えない。

ともすれば、どちらと言えば
引きこもり体質とも言えるぼく自身は、
旅慣れてもいないのだし、ましてや
世界を股にかけるなんてこともできないから、
なにも、どこも、だれも、救えない。

かと言いつつ、でも、たとえば
世界を股にかけただけで、
世界を救えるのか?!
というのもよくわからないな。
そういうことはよくわからないけれども、
ぼくは、ぼくなりに、
じぶん自身のできることを、
することしかできないんだから。
でも、なんだか、
そう考えてみるとね、よく言われる
「グローバル」ということばもまた、
どういうことなのかわからないと言えば
わからないような気もしてくるなあ。

ぼくにはさ、世界中の
あらゆる場所を訪れることはできなくとも、
ぼく自身の目の前にある物事を、
よく見聞きし分かりたい。
それこそが、ぼく自身の
「グローバル」であると思えたい。

令和6年1月20日

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