第50回 三省堂行くと並んで売ってますよ。
[前回noteよりひきつづき、吉本隆明さんの講演『現在をどう生きるか』(開催日時:1995年9月3日)をゆっくりじっくり聴きます。講演音源は吉本隆明の183講演より。ほんじつはねぇ、第50回めなのかなあ。]
こんにちわん!
ぜんかいのところでは、、、
「今だったらそうじゃない、それよりも個人消費を主体にしてそれが減ってるか減ってないか、あるいは、どの規模で減ってるか減ってないか、って判断するのが不況の判断としてもっとも正確である。100パーセント正確とは言いませんけど、他のものにくらべてもっとも正確だ。っていうふうに言えると僕は思います。
僕は要するに素人ですから、こんなこと言ったって『あのやろう、素人のくせに勝手なこと言ってる。』って思うだけで、あんまり文句言われないから、言いますけど。
でも、僕の言ってることのほうが正しいに決まってるわけですよ。なぜなら、誰でもすぐ分かるわけです。僕はそういうふうに思います。」
のばめんを聴いたのよん。つづきだよん。。。
ですから、もう、不況であるかないかとかっていうことですら、もう、あの。つまり、もう、善…。あの、これが不況か、これが不況でないか。あるいは、こうなれば不況か。ってことでもう…、もう日本国の、もうなんか経済専門家っていうものの判断は全く違っています。
(チャプター06「不況をめぐる価値の浮遊性」/9:05〜)
「ですからもう『不況であるかないか』ということですら、日本国の経済専門家の判断はまったくちがってます。」
‥‥不況であるかないか、ですら。。
それはもう全部そうでしょう。円高が…、円高ってのはけしからん、あの、駄目だから是正しろ。って言う経済エコノミスト…、経済専門家もいれば、円高大いに歓迎…、歓迎しろ。って言う専門家もいて。
「それはぜんぶそうでしょう。たとえば『円高はダメだから是正しろ!』と言う経済専門家もいれば、『円高はおおいに歓迎しろ!』と言う専門家もいて。」
つまりはさ、まぎゃくのことを言っている。という。
また、ここでの「是正(ぜせい)」ってゆうことばは、「悪い点を改めただすこと。(広辞苑第七版より)」の意味、とのことですが。ぼくはさ、じつはいろいろことばの意味をよく知らなくって。またもや、しらべました。。。
両方の本が、あの、まあ、特に三省堂行くと両方並んで売ってますよ。
「その両方の本が、三省堂へ行くとならんで売っていますよ。」
それらまぎゃくの本が、三省堂へ行くと隣どうしで売っている。ってのは、じわじわ、おもしろいー。
このあたりだとさ、三省堂って名古屋駅のビルのところにあったかねぇー?????
で。で、お前どっちが正しいんだ。ってゆうふうになるじゃないですか。つまり、正しいんだ、っていうことになるじゃないですか。
「そうしたら『どっちが正しいんだ???』ってなるじゃないですか。」
えーっと、はい、なります。
つまり、専門家でさえ、そういうふうな…。つまり、もう判断の基準が分からなくなり、また、基準がでたらめになって、それで、判断の結果が違っちゃってる。
「つまり専門家でさえ、判断の基準がわからなくなり基準がでたらめになり判断の結果がちがっている。」
なるほどぉ。専門家でさえ。。
これは、もう、不況なら不況っていうのを取ってきても、あの、そういうことになります。
「これは、不況という例を取ってもそういうことになります。」
あぁぁ、ここで、この講演で吉本さんがおっしゃっている「価値の浮遊性」のことに戻るですかー。つまり、「不況」ということについても、人によって判断がばらばらになってしまう。という。
なんてゆうか、ひとつに定まれない、みたいなことなのかなあー。
それではでは、こんかいで「チャプター06」が終わりましたので、次回noteより「チャプター07 疑わしい市民社会の倫理」を聴いてまいります。
講演は、じわじわ後半へ入ろうとしているとはぞんじますが、まだまだ、この先もつづきます〜。
平成30年8月31日
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