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「むつかしい問題」を解くことができるか。

先日、ぼくが勤める学習塾にて、
ある中学生の生徒さんから、数学の
この問題がわからない、と、質問をいただいた。
その問題とは、いろいろな単元が
またがっているかのごとく、
応用に応用を重ねるようにして解く、みたいな、
とってもむつかしい問題で、
でも、なんとか、解説をいたしまして。
それでその最後にね、ぼくから
「この説明で大丈夫かな? わかる?」
と訊ねてみると、生徒さんは
「わかるんだけど、もしも、
同じような問題がテストに出たとしたら、
じぶんで解けるのかどうか、わからない。」
とおっしゃったんだった。

それを聞いて、ぼくは、
そのことって、ある意味では
とっても真理だよなあ、と感じていた。

つまりはさ、
当たりまえのことを言うとすれば、
「むつかしい問題」とは、
解くのが、むつかしい。
その問題を、どうやったら
解くことができるか? のことって、
べつに、学校や入試のテストだけに限らず、
あらゆるところであることだなあ、って思うのよね。

たとえば、問題とは、その解き方が
「すぐにわかる問題」
「すぐにはわからない問題」
のふたつにわかれると思っていて。
そして、さらに、その後者とは、
「考えればわかりそうな問題」
「まったくわからない問題」
というふたつにわかれる。

テストで点を取るためには、まずは
「すぐにわかる問題」を確実に解き、そして、
「考えればわかりそうな問題」を解いてから、
「まったくわからない問題」のほうへと
取りかかる、もしくは、その問題は
捨ててしまっても致し方ない。というのが、
ひとつのセオリーだとぞんじますが。

なので、たとえば、塾では
なるべくたくさんの問題と出合い、
あらゆる問題を解き、わからなければ、
講師から解き方を教えてもらう。
それでもなおかつ、テストや入試のときに
まったくわからない問題が登場したとすれば、
その問題は、もう、
だれかから教えてもらわないかぎり、
解くことができない。つまり、
「わかる問題」はわかるけれども、
「わからない問題」のことは知らない。
的なそういう状況にも成りかねない、
という懸念も、考えられると思うの。

たとえば、講師であるぼくが
生徒さんに解き方を教えることによって、
生徒さんがその問題の解き方を
わかるようになる、ということも、
それはそれで、講師のぼくにとって、
むつかしいことと言えばむつかしいけれども。
でも、もっと、
生徒さん本人のじぶん自身だけの力によって、
「まったくわからない問題」を
解くことができるように成るためには、
どうしたらよいか?! ってゆうのはさ、
じつは、ぼくは、よくわかっていない。

なんだか、生徒が、
全員そう成ったら、その以後、
塾なんていらないのやもしれないな。

そもそも、
学校のテストや入学試験では、
受験者がひとりきりになって、
ひとりだけの能力によって試験を受ける、
というのも、この現代において、
どこまで意味があるんだろう?
とも思ったりもする。

たとえば、現実の生活でね、
「むつかしい問題」と出くわしたら、
本を読んだり、
資料を調べたり、
スマホで検索したり、
だれかに相談したり、
仲間たちと協力したり、
関係各所と連携したり、
することによって、
なんとか、解決できたり、
もしくは、それでも
うまいこと解決できなかったり、
なのだとは思うのですが。

前回noteで申しました、Mr.Childrenの
『マシンガンをぶっ放せ』の中では、
【参考書を持って挑んだんじゃ一生謎は解けぬ】
とも歌われているけれど。
参考書を見たところで
「謎」は解けないんだとしても、
参考書に載っていることは、
参考書を見れば載っているんだから、
参考書を見たら、よい。

記憶して、記憶したものを
頭の中から取り出す能力も、
大事なのだとしても、
知りたいことを
どうやったら調べられるか、という能力も、
とっても大事のような気がする。

とは言いながらも、
現状の試験はそういう試験なのだから、
しょうがないんだし。もしくはさ、
生徒さんたちだけでなくって、
ぼくは、ぼくで、どうすれば
「まったくわからない問題」を解くことができるのか?
ってゆうのは、
ぼく自身の重大な問題だ〜。

令和4年10月23日


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