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ゲージュツについて(バンクシー、公民館のギャラリー、見てはいけない絵画)

かのバンクシーが記録映画『exit through the giftshop』の中で「誰でも芸術をやるべきだと思っていたが、果たしてそれで正しかったのだろうか…(沈黙)」というような重苦しい場面がある。

自分もずっとそう思っていた。「誰でも芸術はできるはず」と。ただ、やらないだけで、やろうと思えば誰でも絵や文章など書けるものだ、と。

「絵なんてダメ。下手だから…」と自分で自身に制限を掛けているだけなのだと思っていた。

バンクシーもそのように「アートは誰でも出来る」派の考えだったのだろう。

しかし、あの記録映画そのものが、どうやらその甘い考えを否定している節がある。
(どう判断するかは見る者の目に委ねられるが。)

芸術、アートとは一体何であろうか? マーケティングとやらで「これが話題のアートサクヒンです」と広告宣伝されて、美術館のギフトショップでお土産を買う、その対象なのだろうか。

高尚な芸術サクヒンだけが価値があり、下々の衆生はただそれらを崇め奉り有り難がるしかないのだろうか。

壁に描いた落書き、チラシの裏に書いた絵には意味がないのか。

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インターネットのイラスト投稿サイトやyoutube、各種の創作物は(果たしてそれが見られるかどうかは別として)ある程度自由にネット上にアップロードできるようになっている。

公民館や美術館でも「市民の展示コーナー」などが一区画にあったりして、手芸品や巾着袋が飾られていたりする。

イラストや写真が自由にアップロードされ、大量に展示されているサイトを何回か見たことがある。大勢の作者がそれぞれの感覚で自由に絵を描いている。

これはおそらくすばらしいことに違いない。

ある施設に地元中学生たちが作った「自由なオブジェ」なるものが一面に展示されていることがあった。

これもきっと良いことなのだろう。

芸術、アート、美術…は学校で教えられるものだろうか。そのような疑問も湧くが、テクニックを教えることはもちろん可能だ。

人の手による創作物には「感情」が入ってしまうことがある。

ある映画で恋人に裏切られたダンサーが言った。「ダンスで一番大切な物は何か分かる?」(沈黙)(大胆に踊ってみせながら、裏切った恋人の目を見据えて)「感情よ」

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感情を排し、思考を結晶化させたような芸術的創作物もある。

油断していると「想い」は入ってしまうし、むしろそのような想いは創作物には入れてよいと思う。

ゲイジュツ的創作物にはどうやら「魂」も入ってしまうこともあるらしい。

入魂の一作、という言い方もする。

ではその「たましい」はどのような魂であろうか。昇華された? 純化された、結晶化した、執着している? 汚れた?

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見てはいけない絵画、というものがある。

そういう類の絵があるのだと知った。目にすると目がピリピリするような感覚がある。おぞましい迫力は確かにある。

それは大量殺人などの罪で牢獄にいる者たちの手による絵であった。サメや包丁やピエロなどが描かれている。

確かにここにも凄惨な「たましい」が入魂しているようだ。

このような絵を好む者もいるのは理解はするが、その描かれた「たましい」にいつしか浸食されはしないか、その辺りが見る者を苦しく居たたまれぬ気持ちにさせる気がする。

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ゲイジュツサクヒンは「きれいなもの」だけを作るのではない、と知ったときは喜びであった。「きれいであるべき」絵などに悲しみや苦痛、孤独、痛みを描いても良いのだとは思っていなかった。

確かに「絵は自由でよい、何を描いてもよい、苦痛でも焦燥でも怒りでも、思いをぶつけてよい」のかもしれないが、果たしてそうして出来たものは、一体誰かに喜んでもらえるものなのだろうか。

中学生たちが作った「自由なオブジェ」にはごく一部だが「恐怖」や「苦悩」などを扱った物もあった。

自由なインターネットギャラリーには各種の自由な表現で、各々の内なる感情が表出させられている。

タマシイにはどうやら声もあるようだ。満員電車の人いきれ、混雑。身動きできない感じ。

自由な創作物には各種の自由なタマシイが入魂されている。ゲイジュツ作、創作物と向き合うのは、そのどれらとも密接な関係を持つということだ。

各々のたましいが各種の表情で、生のまま、剥き出しで向かい合ってくる。

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自分も「創作バンザイ、芸術ふりーだむ」という類の考えであった。

創作物にはナマの感情が出ることもあるようだ。各人それぞれの内なるもの、それは流れ出る血のようにどくどくしていたり、どす黒かったりする(こともある)。

一流のゲイジュツサクヒン、とは何なのだろうか。

まだよく分からないところは正直言って、ある。

弁護士が主役の漫画で「法律で権利は守れる。だが命は守れない」というセリフがあった。

確かに、例えば法律がない世界があったとして、そこではすべてが力の差で決まる。

ボクシングで言うならライト級もヘビー級もなく無差別級のみになる。力のあるものだけが最後に勝つ。

法律が権利で弱者を守るなら、その法や政策などであらゆる人間的営為は完全に解決できるのだろうか。

もちろんそれは否、であり、死、老い、病、苦痛に孤独、「法律」や「医学」でも解決できない問題は山ほどある。(解決できない問題の方が多いのではないだろうか)

日常の些細(かもしれないが当人には深刻)な感情の問題。

なぜゲイジュツや美を求めるのだろうか。気を紛らわせたい。気分を変えたい。心を洗い流したい。楽しい気分になりたい、愉快になりたい。笑いたい。

ゲイジュツや娯楽、創作物はスナック菓子や清涼飲料水感覚で良いのだとも思う。

自分の好きな味、というものがあるのだといつか分かってくる気もする。

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ゲイジュツ・ゴラク・ソウサクで「栄養がある(権威がある)から、これを食べよ(味わえ)」というのは強権が過ぎるのかもしれない。

高級料理だろうと、手作りのオニギリであろうと、少なくとも口に入れてもらうのであれば最低限の砕心は必要であるようだ。


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