闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(1)
1. 京都前:スマートスピーカーは一体どの辺りがスマートなのか
上原の部屋には幾つものスピーカーが置かれている。中には段ボール箱で手作りされた物もあり、それは数個のスピーカー間に挟まれるように積み上げられている。ある人が持つスピーカーの数はその人の孤独に比例する、と上原はいつか山林に暮らす音楽家を訪ねた際に知った。世捨て人の音楽者は部屋を玩具人形とスピーカーで埋め尽くしていた。人の孤独は読書量と、所有する人形の数と、スピーカーの数に依るのかもしれないと上原はそのとき思った。世捨て人の彼と同じく、友人が少ない上原自身も、部屋中を音響装置で埋め尽くしても良いと思っていた。
上原家の居間にも大きな音響機器が置かれている。音質が良いらしい、とネットで見かけた上原がお座なりに片手間で調べた挙げ句、そのままフリマアプリで音響装置を購入してしまっていた。
届いた品は軍需設備品か、または、黎明期の巨大計算機型パソコン並みの大きさだった。これほど大きいとは上原も意外だった。世捨て人の長髪音楽家は言っていた。「スピーカーは大きいほど良い」
上原の妻はその軍需品を見るなり、呆れたような顔をして、そのまま部屋を出て行ってしまった。
上原は数年前、やはりインターネットで得た知識で円筒型のパイプオルガン式スピーカーを数本作ったことがあった。ホームセンターで購入したボール紙製の円筒パイプがその素材であった。アルミホイルで補強装飾されたそれらは、とにかく部屋中で場所を取った。音質が良いのか悪いのか、いまいち自信のなかった上原が、暫く後に苦渋の決断の末それらの廃棄を決めたとき、妻は晴れやかな顔で欣喜雀躍して喜んだ。
新たに購入した軍需品風スピーカーの、肝心の音質については、今までの物よりも少し良いような気もしたが、ほとんど何も変わらないような気もした。
良い買い物をしたのだ、と上原は冷や汗をかきながら、どうにかして納得感に浸ろうとしたが気まずいような一抹の不安が残った。
上原はしかし、これで大好きなアンビエント音楽を存分に聴くのだと、家人を気にしながら思った。
そのスピーカーは煩わしい手筈を済ませると、スマホやパソコンから無線機能で音楽データを受信し、保存してあるプレイリストを再生することもできるようだった。
その音響機器にはスマートスピーカーと呼ばれるものと同等の機能が付いているようだったが、声で機械に指示をする、というのがどうも気恥ずかしく、上原はその機能を長い間、使わずに放ったらかしにしていた。
スピーカーに声で指示をしているのは子供たちであった。
曲名や自作プレイリスト、曲のスキップ、音量調整まで機械に話し掛けるようにして操作している。
これも幼形進化というものか、だが、これが進化と呼べるのか、退化なのではないか、などとぶつくさ思いながらも、子供たちを見ていると、声での音響機器操作に上原も抵抗感がなくなってきた。
自らの声での音楽再生に慣れてしまうと、ものぐさな上原はスマホ操作やリモコン代わりに、声ばかりで音響機器を操作指示するようになってしまった。
だが、本来スマートであるはずの機器はその期待通りに作動せず、上原の聴きたい音楽と異なる、全く似ても似つかない音楽を再生することがしばしばだった。
声の認識機能がスマートとはほど遠く、これまでどうにか機器が認識できたプレイリスト名ばかりを安全優先で再生させるようになってしまう。結果、上原はスマートどころか、いつも似たような音楽ばかりを常に繰り返し聴き続けるような状態になってしまった。
その音響機器はスマートにインターネットに繋がり、広大無辺なネット上に夥しく累積された数千万曲もの音楽を聴くこともできるはずだった。
広告では、それらの音響製品を購入すれば、夢のように快適な音楽生活が送れることをいつものようにやや大袈裟に謳っていた。
だがチラシやネットに掲載されている青いレーザー式に描かれた音楽データが、家中をSF映画のようにに駆け巡る広告写真は現実とはほど遠いようにも思えた。
エンジンを入れても動かない車があるだろうか。
再生ボタンを押しても音楽が流れない音響装置があるだろうか。
インターネットや無線経由の音楽再生装置は、広告で謳ってるような未来式の青い蛍光ビームが想起させるような万全の安定性を上原家ではまだ確立できていないようであった。
上原は自らのパソコン内の音楽を手遊びに道楽として聴きたい順に並べ替え、プレイリスト化していたが、無線状態が安定しないのか、スマートであるはずの音響装置ではその再生が上手くいかないことが間々あった。
どういう訳か家庭内での音楽共有が悉く失敗する場合、最も手軽な音楽再生方法は、インターネットの音楽を取り敢えず流すようスピーカーに声で指示することであった。
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