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闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(3)

2 京都前:イーノ展なんて知らなかった


 
 その日はまたいつものように「ブライアンイーノを再生」と音響機器に伝えた。それだけでイーノ音響をとりあえずスピーカーから流すことはできると分かった。
 何が流れるのか分からぬシャッフル再生、というのは、次の曲に対し用心してしまうので好みではなかったが、指定したアルバム名を聞き間違いされ、聴きたくない曲を大音量で聴かされるよりは忍ぶことができた。
 
 音楽配信サービスにおいてアーティスト名でのシャッフル再生、というのは完全に無作為なランダム再生なのだろうか。それとも人気曲や新曲が、幾分流れ易いように仕様が設定されているのだろうか。 
 
 スピーカーから、イーノの空港アンビエント音楽1曲目が流れ始めた。久しぶりに聴いたが、それはやはり水や雲や空気のような、世に遍在する美しいエーテルの微かな香気のように感じられた。
 
 水の揺らめきを見ていても飽きず、時に追憶的で瞑想的な気にもなるように、イーノ空港音楽は無音の静寂よりも気を安らげる作用がある気もする。
 
 上原は台所で食器を洗いながらその音響に耳を傾けていた。
 
 不意に美は脳天から背筋を貫くことがある。
 イーノ音楽のシャッフル再生、その日の2曲目は、イーノに一時期傾倒していたこともある上原も聴いたことがない曲であった。
 
 この曲は一体何であろうか。イーノが静かな賛美歌のような歌を、どこか物質離れした暗い残響室を思わせる声で、祈るように歌っている。低い声で歌われるそれは、暗黒の海底に沈没した二十世紀の幽霊客船で歌われる、真黒の孤独な祈りのようにも聴こえた。
 上原は一聴し、その歌が気になり、台所の洗い物を終えると、ソファでスマートフォンを確認した。
 今、スピーカーで流れている曲をスマホ画面で見ることができるのであった。
 それはイーノのファンである上原も見たこともないジャケットで、長い呪文のような英文字が連なったアルバム名が書かれている。
 
 これは何かのコンピレーションアルバム内の一曲か、誰かへの提供曲か、それとも映画のサウンドトラック収録曲だろうか。
 
 全身が暗い絹で包まれ、海底深く、何者かに見守られながら沈んでいくような美しい楽曲だった。
 
 上原は、たった今聴いた音楽について、それがブライアン・イーノの新曲だと知った。曲名で調べると、幾つもの情報をネットで見ることができた。
 彼はそれをすぐに、数少ない友人の一人に、スマホアプリを使って送信した。その人物はイーノやボルタンスキーやJ・A・シーザーの話を理解し共感できる唯一の知り合いだった。
「音楽の本質」と上原は字句を記し、音楽配信元の楽曲リンクと一緒に送った。
 数少ない貴重な友人は、その歌にやはり感銘を受けたようだった。
 友人は上原に「京都でやっているイーノ展」について教えてくれた。
 
 イーノの展覧会。
 
 上原はいつか行われたフジロックフェスティバルのイーノライブも行けなかった。表参道で展示されたの『七七〇〇万絵画』のインスタレーションも、開催されていることすら知らない内に会期は終了していた。
 
 ブライアン・イーノは、上原にとって永遠の謎である芸術と美についての避難所、拠り所、指針であり、かつてポルノスターのような官能的な姿をしていた賢者である彼は、干涸らびかけた解説書付き芸術前衛音楽に、色彩と感性の美を瑞々しく思い出させてくれた、偉大なる人物であった。
 
 意図した作為や意識、それ以上に偶然の無意識や美、東洋思想の哲学や方法を音楽作成に取り入れた美術音楽者であり色彩の音楽家。庭園音楽に庭園美術、自然生成する草木や花々のような自然美を宿した音楽群。上原は京都で行われているというブライアン・イーノ展について慌てて調べてみた。
 
 京都市内の歴史的建造物にイーノ氏が作品を展示。全三階に亘る大規模個展。世界初出展の作品も有り。
 
 イーノのインスタレーションや音楽演奏のライブなどを上原は見たことがなかった。イーノに会ったこともなければ見かけたこともない。
 
 イーノが京都に来て、直接、音響装置や作品展示の指示をしたのだろうか。
 
 イーノの音楽は折に触れ、自宅や車内、歩きながらなど、空気や水がそこらにいつもあるような感覚で日頃、聴いてはいた。
 
  そういえば、これまで上原はイーノの電子美術品を目にしたことはあっただろうか。




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