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闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(4)

3 京都前:イーノの映像ってどう?


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 イーノが制作した『木曜日午後』というVHSビデオが一般の小売店でかつて普通に販売されていた。  
 それはまだテレビがブラウン管で数十キロもある巨大な物体だった時期の芸術ビデオ作品であった。
 それは、映画などの一般映像とは異なり、横長でなく、縦長の映像作品であった。
 それを見るためには、黒く重い立方体の物体であったブラウン管テレビを、九十度、垂直になるように縦型に傾けて観賞しなければならず、家具一体型のテレビ台利用者にとっては何とも酷な、敷居の高いビデオ芸術作品であった。
 だが、イーノをどこか偶像視していた学生期の上原にとっては、テレビを縦に転がして、VHSテープを再生させることなど、容易いことのようにも思えた。
 イーノ作品を自室で体験できるのなら、それを購入し、試してみる価値があるのではなかろうか。
 
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 蒸すような狭苦しいワンルームマンションの一室、ゆでたまごのように無理やり縦に置かれた不安定なテレビは、いつ倒れるかと心なしか眼前で揺れ続けている気がする。
 そのような二十五インチの縦型画面で、上原が見た内容というのは、束ねていた髪をほどく女性の裸体像などであったが、その映像は静止しているかのように低速で、ビデオ絵画として、これまで他で見たことのないような色彩をしていた。若くはないような女性の、どこか曖昧な記憶の中のような裸体を延々と超低速で見続ける、というのは、やっぱりこれが、ビデオ芸術、というものなのだろうか。
 上原は暑苦しい部屋で、結局その映像を一度見たきりで、それ以上、最後まで見直すことはなかった。
 しかし、その謎めいた、ありがたいような貴重なVHSテープは神聖なる芸術商品として、その威光を放つステータスの一端として、本棚の隅に、大切に偉そうに陳列された。ビデオデッキで再生を続けると、テープが摩耗してしまうような気もした。
 これが芸術、ビデオアート、というものなんだろうか。
 縦に置かれた巨大なブラウン管はいつ倒れるとも知れなかったが、そのままにしておかれた。
 いかにもありそうだが、何かの拍子でテレビが横転すれば、そこに寝ていた上原の頭はトマトか柿のように潰れるだろうか。
 そのとき、死体の第一発見者は、なぜ彼はブラウン管テレビをわざわざ縦にして置いたのか疑問に思うかもしれない。自殺なのか事故なのか、判断に悩むだろうか。
 
 だが、得てして芸術とはそういうものなのだろう、と当時の上原は思った。
 
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 『七七〇〇万絵画』というイーノ制作のPCソフトウェアも上原はリリース直後に購入し、ウィンドウズパソコンにインストールしたが、やはりビデオアートの『木曜日午後』と同じく、数回起動しただけで、以降は見なくなった。
 
 基本的には画面がゆっくりと、『木曜午後』と似たように、気付かないくらいの超低速でいつのまにか変化している、類の映像美術であった。
 それはイーノ音楽のように、家具として、壁に掛けた絵として、インテリアとして、部屋や廊下に「設置」するようなものなのかもしれない。
 
 パソコンを起動し、スクリーンセーバーのような画面映像を、禅の公案風に凝視するようなものでもない、のだろう。
 『木曜午後』の同封解説書でイーノは「未来での、壁に掛ける薄い映像モニタ」について語っていた。
 上原が愚者のように行ったように、居間のテレビ台に置かれたブラウン管テレビを取り出し、わざわざイーノのビデオアート用に縦にして置く、というのは、そもそもテレビが重いし、足にでも落下させたら怪我もするし、テレビも壊れる。あまりに面倒で、手間が掛かりすぎ、危険だった。




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