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闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(5)

3 京都前:イーノの映像ってどう?(承前)


 パソコンやビデオを使用したイーノの「マルチメディア」時期の幾つかの商品を上原は悉く購入していた。
 上原は学生時代、イーノ信者だったのかもしれない。
 上原は学生時代、京都に在住していたが、大阪や神戸の家電量販店などを経巡り、すぐ絶版になる類のイーノ商品を買っていた。 
3Dメガネを掛け、ビデオ映像をパソコン画面で眺める、という『ヘッドキャンディ』なる商品も上原は発売直後に購入していた。
 それはCDロムにビデオファイルのみが収録されているものだったが、映像はどこかで見たことがあるような、パチンコ屋の電飾のような、光ったピラミッドが拡大したり縮小したりする類のものであった。
 上原は映像よりも、イーノがロバート・フリップと共作した音楽が目的で、そのCDロムを購入したので、映像は正直なところ、どうでも良かった。上原はその映像を全編、まして立体眼鏡を掛けて、見ることはなかった。
 CDロムのケース内には禿頭の音楽家が、同梱立体眼鏡を掛けて大口を開け、驚いたような顔をしている、何ともいかがわしいような、安っぽさが漂う写真がモノクロ印刷されていた。
 上原は学生時期、イーノを信奉していたような節があるので、イーノ関連であれば、食器や香水、食品や経典など、もし、そのようなものがあったなら、何でもとりあえず飛び付いていたかもしれない。
 信者の盲信とは、自身自らの思考や判断を捨てることなので、愚者になることと変わりがない。盲信者も愚者も、善悪や美醜の基準を、自身の感覚ではなく、権威の言いなりで追従する。どうにも自身の感性に自信がなければ、世間の権威や権力者に従うしかないようであった。
 
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 上原はイーノの視覚芸術より音楽が、その音響とイーノ自身の歌声が好きだった。
 
 上原は半信者のように、音楽についてイーノが勧めるもの、面白いと言ったもの、関わった音楽などを細かく調べていた時期もあった。
 
 イーノのアンビエント音楽についての思想や手法に影響を受けた、音楽生成ソフトウェアの「KOAN」も上原は使用したことがあった。彼は使いこなせるのか不明ながら、前後を考えずに入手し、そのパラメーターを触りながら音色の無限変化を面白がった。
iPhoneでの「BLOOM」など一連のアンビエント音楽アプリも半信者さながら悉く入手し、実際に触って、その音色色彩などの感覚を確かめた。
 
 イーノの音色、その包み込まれるような深い安堵の水深世界、見たことも行ったこともないが、なぜか懐かしいような空間、その音響を上原はひたすら求めていた。
 美は信仰の源泉なのだろうか。
 数々のイーノアプリやイーノ商品を購入し続ける上原はやはり、紛う方なきイーノ教信者なのだろうか。
 

4 京都前:宗教と美とマスコミ

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 上原はあるとき、外国で教会を見学した後、同行者の男性に言ったことがあった。それは無言の気まずさを避けるために発言したようなきらいがなくはなかった。上原は教会の感想を言った。
「あまりにも荘厳で、仄暗い自然光の中に見えるステンドグラスとか、その空間造形演出に圧倒されました」
 饒舌過ぎるのは、同行者の機嫌を取るためだったろうか。
 父親ほど年の離れた同行者は上原の発言を聞いた後、おもむろに言った。
「そりゃあ当然だよ。そうやって感銘を与えるために作られたんだから。宗教ってそういうもんでしょ。権力を握り続けるために」

 上原はたしなめられるように言われたその言葉が妙に気になった。
 芸術や美は権力に利用され、かしずくようなものなのだろうか。宗教芸術や美術は神の権力を誇示するものなのだろうか。
 荘厳な宗教芸術は、信者を威圧するために作られたのだろうか。信者を盲目的に従属させるために作られたのだろうか。
 美によって人を惹き付け、それを権威として権力を振るい、人々を従わせ、反抗を封じるような、美とは、そんなに従属的で不自由な、言論圧殺道具のようなものなのだろうか。
 政府や大企業の広告に駆り出されるタレントや女優俳優は、かつて教会が行ったように世間的な「美の威光」で、中世と同様に大衆を調教しているのだろうか。

 教会で使用される宗教芸術、また、現代であればマスメディア広告で目にする人気タレントや女優、更にその斬新で凝った映像演出などは、組織教団や企業、団体の威光と権威を如実に示す、利用価値のある道具である。

 だが、もし、美と芸術がそのような、権威に仕える道具であるだけに過ぎないのなら、これほどつまらないことはないだろう。

 イーノは宗教団体の教祖ではない。
 
 いわゆるファンクラブというような団体も、彼は組織していないし運営もしていない。

 信者が全て身に付けなければいけない、教団信者用の服があるとしたら、どうだろう。また、教団信者が購入し、読まねばならぬ書籍やパンフレットがあるとしたら? 信者がそれを聴いて賛美しなければならぬ音楽があるとしたら、それは一体どういうものだろう。

 権力が威光としてかざす大衆扇動の道具としての美や美的技術も一方にはあるには違いなかった。

 しかしその一方で、言葉の本来の意味で芸術や美は、内的で精神的な、個人的な感覚や感性にまつわるものであった。それを組織や教団、世間や社会、教祖様などが一様に強制するのは、個人の内面や精神性の否定であり、侵害であるはずだった。
 美醜について、善悪について、何を感じ、どう考えるかは個人の内的な発露に依るもので、他人や集団の押し付けからは悉く自由であるべきではないか、と上原は考えていた。




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