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闇の音、闇の色彩 ―イーノアンビエント京都異聞(8)

3 京都への道中:高速道路サービスエリアのための音楽(承前)

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 高速道路のサービスエリアは、目的地へ向かう途中の人々が小休憩を行い、食事をし、手洗いに行き、地場物産店やお土産売り場を眺めたりと、賑やかで独特な活気が充ちている。
 旅行中の人々には或る種の解放的な空気があり、それらがサービスエリアの中に漂っているのかもしれない。
 イーノは『空港のための音楽』をアンビエント音楽の一作目として発表した。
「高速道路休憩所のための音楽」としてもそれを使用して良いのかもしれないと思った。
 空港の緊張感とサービスエリアの解放感とは少し違う気もするが、移動者、旅行者が小休止する場所、としては同じ筈だと思った。
 
 マスメディア等でけたたましく喧伝される報道に影響され、人々は猛暑の中、口と鼻を覆う面を付け、汗を流しながら炎天下のアスファルトを歩いている。往年のプロレスラーですら、覆面レスラーは鼻と口の部分は開口していたものだが、容赦ない陽射しの下、鼻と口を布製の面で塞ぐのは息苦しいに違いなかった。酷暑のお盆時期、茹だるようなサービスエリアで、確かにその景色はどこか現実離れしていた。
 先の戦時中、挙国一致に尽力しない国民は非国民と蔑まれ、陰に陽に攻撃されたらしいが、時代は変われど人の性行は異ならず、ここ数年は口と鼻を塞ぐ面を付けない人々はどうも白眼視され、非国民扱いされる風潮ではあった。
 鼻口塞ぎ面をまた、イーノ展でも着用を強制されるのかと思うと、それはそれで面倒ではあった。
 上原はその着用を強制されるのもおかしなことだと思っていたし、少し調べればその塞ぎ面が意味があるのかどうか、各人が判断できるはずだと思っていた。

「そのような布一枚、紙切れ一枚で口鼻を塞ぐことなど大したことではないのだから、とやかく拘ることではない」という、かつては新聞投書欄、今ではネット上のSNSなどで見かけがちな定型意見も、上原は同意しかねるところがあった。
 人によって「大したこと」かどうかは感性が異なる。例えば、脚や胸元を露出する服を着たいか、着たくないか、薄着をすることなど「大したことない」かどうかは、全くもって、各人の感覚によって異なるべきであり、それを、権威で強制するのは明らかにおかしなことであった。
 権威と権力がメディアとネットを支配しているのは事実であろうが、それになびくかどうかは各人の判断であるはずだった。

 権力が強制する音楽や舞踏は美しいだろうか。全体主義国家の人々が国家主席の前で披露する、作り笑顔でのマスゲームは一体、どれくらい美しいものであろうか。
 鼻と口を塞ぐ面を付けて炎天下を歩くのは、全体主義国家の監視下で、無理矢理の作り笑顔で国家主席を賛美しなければならぬ様子に似ていた。
 権力に唯々諾々と従い、全体主義賛美の行進と舞踊に参加するのは、その国の人々にとっては仕方のないことなのかもしれない。そうしなければ家族や自分の命が危険に晒されるのであれば、堪えるしかないのかもしれない。

 一方、全体主義国家の見捨てられたような廃村の壁に、国家元首に対する呪詛の言葉が書き殴られているのを、上原は或る写真で見たことがあった。
 全体主義体制の終焉を望むようなその文句を密かに、しかし鮮やかに書き表した者がいる。密告者に発見されれば、国家反逆罪者となり即刻処刑か、再教育センターという名の強制収容所送りであろう。
 彼はもうこの世にいないかもしれない。
 国家主席が手を叩いて喜ぶ、作り笑顔の大演舞集団も確かに国家芸術であるのかもしれない。しかしまた、廃村の壁に書き殴られた全体主義を呪う文言も、圧政に喘ぐ農民が、密告者の目をかいくぐってでも、どうしても書き付けざるを得なかった、絶望と怨嗟の詩であった。

 誰もが命を賭けて、危険を顧みずに、権力の批判や事実を表現できる訳でもなく、自分や家族の命を守るために、仕方なく国家主席主催の大演舞集団に加わらなければいけない場合もあるのだろう。

 イーノの音楽は果たして、国家や集団のための芸術だろうか、それとも個人の内面、精神的な自由を求め喘ぐ者のための音楽だろうか。
 作り笑顔の集団生活に苦しみ、疲弊し、絶望した者たちの激痛を、精神的な、目に見えぬ透明な何か、音や色彩で和らげ、その人本来の姿や心を思い起こさせ、取り戻させるような音楽や美術。上原は確かにブライアン・イーノの音楽に常々それらを感じていた。上原も日常生活のあれやこれやに日々打ちのめされながらも、イーノ音響で正気を失わずに済んでいるようなところも確かにあった。

 我を忘れる、我を失う、我を取り戻す、という言葉があるが、日常生活の多忙から、我を失い続けていると、それこそ生命の危険があるのではなかろうか。
 作り笑いばかりで、終いにはそれが本来の顔になってしまったり、鼻と口を塞ぐ面を付け続けていたら、それが仮面ではなく、本当の顔になってしまった。

 イーノだけではないが、音楽や芸術や美には、失った我を取り戻させるような力があった。美や芸術や音楽のその力はどこから来て、どのように人の心に作用するのか、一切は謎めいていた。

 猛暑の中、鼻と口を塞ぐ仮面を付けざるを得ない人々の中、どこか現実味が薄い、高速道路のサービスエリアで、上原が正気を失わずに立っていられるのも、自身の心を回復させる類のイーノ音楽等々が歴として存在していたからであった。

 目で見える怪我や外傷には慌てて病院へ行き治療をする。しかし、目に見えぬ心の浸食や崩壊は、目に見えて血や骨や肉が流血裂傷する訳ではないので、その透明な内奥の心や魂が崩れ行く深刻さが捉え難い。
 心は、体のように血と骨と肉で構成されてはいないが、意味、言葉、美、物語、感情、思考等を必要としている。それらが供給されず途絶えると、精神や心はいつの間にか枯れ果てて萎んでしまうのかもしれない。
 上原は、世間は常に「目に見えるもの」への執着ばかりで、「目に見えないもの」に頓着しなさ過ぎのような気がしていた。しかし、それはどうにも仕方がないようにも思える。





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