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【レポート】OSAKA URBANDESIGN EXPOLRE vol.5『私鉄王国とまちの形成』(講師:角野幸博さん)

 大阪で先進的な都市デザインを実践されてきた方々をお招きし、直接レクチャー頂くハートビートプランの社内連続講座『OSAKA URBANDESIGN EXPOLRE』。 
 vol.5は、「私鉄によるまちの形成」をテーマに、人口減少社会における都心と郊外との共生可能性について研究をしている角野幸博さんをお招きし、関西私鉄の成り立ちや郊外の発展、これからの郊外についてお話をお聞きしました。そのレポートをお届けします。

 これまでの講座のレポートはこちらからご確認いただけます。

角野幸博(かどの・ゆきひろ)
 1955年生まれ。78年京都大学工学部建築学科卒業。80年同大学院修士課程、84年大阪大学大学院博士後期課程修了。
 関西学院大学建築学部教授。
 福井工業大学非常勤講師、電通勤務、武庫川女子大学生活環境学部教授、関西学院大学総合政策学部教授などを経て2021年より現職。工学博士。一級建築士。

 都市論の視点から、ホテル、ミュージアムにも関心を寄せる。

 主な著書に『鉄道と郊外』(編著)、『郊外の20世紀 ~テーマを追い求めた住宅地』、『近代日本の郊外住宅地』(共編著)、『大阪の表現力』(共編著)、『都市のリ・デザイン』(共著)、『表象としての身体』(共著)、『マネジメント時代の建築企画』などがある。

※以降の図版は角野さん提供



角野
 関西の都市圏の整備において、私鉄は郊外沿線だけでなく、ターミナル開発においても関わった部分が非常に多いです。その辺りのことも踏まえ、お話ししていきます。どうぞよろしくお願いします。

プロローグ 三大都市圏の開発圏域

 大正時代の大阪では既に、阪神線、阪急線、近鉄線、南海線などの私鉄網が形成されており、関西では郊外が広く認識されていきました。
 これは大正11年4月9日の大阪毎日新聞の見開き広告です。紙面中央に「大阪より郊外へ」とあるように、春の行楽シーズンにこのような広告を出し、「みんな郊外へ行きましょうよ」と呼びかけるような時代でした。

 こちらは三大都市圏である、関東圏(右下)、名古屋圏(右上)、関西圏(左下)を示したものです。
 黒い線が鉄道網です。薄く見える円が東京駅、名古屋駅、大阪駅、京都駅、神戸駅を中心とした半径20km、半径40kmを示してます。
 網掛け部は、都心への10%通勤圏(各自治体の就業者のうち、1割以上が就業している圏域)です。この網掛けの分布から、関東圏は、東京駅を中心とした同心円になってるのに対し、関西圏は、大阪駅を中心に、京阪神の三都構造が通勤圏になっていることが読み解けます。

 次に、三大都市圏の16ヘクタール以上の大規模住宅地開発がどのように行われたかを見ていきましょう。図中、●印が民間開発、▲印は行政等の公的開発です。
 関東圏では、東京駅から半径20kmから40kmの間で開発が盛んであり、北部では半径40kmを超えたエリアでも開発が進んでいます。
 関西圏でも、大阪駅、京都駅、神戸駅から半径20kmから40kmの間で開発があり、大阪駅から半径30kmほどの場所でも開発があることが特徴です。
 名古屋圏では、名古屋駅から半径20kmほどの場所で住宅地開発が集中しています。
 関東圏や関西圏の都市規模や交通規模の違いが分かります。現在では、滋賀県方面の開発が進んでいますが、関東圏、名古屋圏、関西圏と比較すると開発規模は小さいです。

 これは、10%通勤圏域を図示したものです。
 左の図は、京阪神三都市の10%従業圏を示したものです。網掛け(▮)が大阪市10%従業圏、ドット(∵)が京都市10%従業圏。斜線(▧)が神戸市10%従業圏です。京都南部の方では、従業圏が重なっているところ(ドットと網掛け)があります。
 また、阪神間の西宮や芦屋、三田は大阪と神戸の両方に人が流れています。またハッチ(▩)の地域は、京阪神三都すべてとの関わりが強い、ということも見えます。
 右の図は京阪神三都市以外の10%従業圏都市を示した図です。姫路市、堺市、奈良市、和歌山市は、その周辺の圏域の就業者を集めています。

 右の図は、1995〜2015年の従業地の分散化傾向を示しています。京阪神へ通勤するのではなく、自分が住んでいる町や、京阪神に隣接する都市で働いている人たちが徐々に増えており、従業地が分散化している傾向が読み取れます。
 この背景には、女性の就業率が上がっていること、非正規労働が増えていることとも関係があるのではないかと考えられ、通勤手当が出ず、遠方まで働きに行くことができない労働者が含まれていると推測されます。
 ここまで、三大都市圏の基礎知識を紹介しましたが、これらの都市圏の構造がどのようなプロセスでできてきたのかを紹介していきます。

1 田園都市と戦前の関西郊外

1-1 海外の都市計画・田園都市

 イギリスでは、18世紀後期に産業革命が起こり、19世紀には、大都市の中心部と郊外に工場労働者が増えていきます。
 労働者が劣悪な環境に住まわされていたことが原因で、資本家と労働者の対立が生まれ、ロバートオーウェンらの社会改革運動が起こります。
 19世紀後期には、公衆衛生法が成立し、それに基づいた規格住宅の建築や、ウィリアム・モリスによる住宅復興運動が起こりました。
 そのような中でベッドフォードパークでは、企業社宅の整備が行われました。イギリス最初の鉄道沿線型の郊外住宅地と言われています。
 それから、工場とその従業員の社宅をセットにして建設するケースもありました。バーミンガム郊外のボーンビル、リバプール郊外のユニリーバという石鹸工場の社宅であるポートサンライト、アメリカではプルマンという鉄道会社の住宅地等があげられます。

 イギリスの社会改良家のエベネザー・ハワードはガーデンシティを考案します。
 ガーデンシティは、ロンドンの都心から鉄道で20~30kmほど離れた場所にある約3万人程度が住む職住近接型の独立した街、というのがコンセプトです。
 19世紀の終わりには、ハワードが『明日:真の改革にいたる平和な道』という本を書き、それに合わせて田園都市協会が出来ました。また、1902年には『Garden Cities of Tomorrow』という本が書かれ、ハワードのコンセプトに共感したレイモンド・アンウィンは、レッチワースとウェリンをつくりました。
 資料中央にある円状の図がガーデンシティのモデルであり、資料左下の三角形の図はガーデンシティの一部です。図の中央に帯状に伸びているのがセントラルパークを示しており、その外側が住宅ゾーンや工場群、更に外側は農地になっています。ハワードはこれらをガーデンシティのモデルとしていました。しかし、現実にはこのような形にはならず、レッチワースやウェリンはGoogle Earthで見ると形が全く異なります。
 資料右の図はウェリンガーデンシティの広告です。当時のコマーシャルは面白く、「yesterday living and working in the smoke(昨日までは煙の中で住んで働いていたではないか)」、「today living in the suburbs -working in the smoke(今は郊外に住んで煙の中で働いている)」、「tomorrow living and working in the sun at Welwyn garden city(明日からは太陽の下でウェルインガーデンシティで住んで働こう)」という広告が出ていました。

 現在のレッチワースの状況です。今も人は住んでおり、一部では新規開発のゾーンも見られます。

 こちらは、現在のウェリンの様子です。駅前や徒歩圏内の場所には、公園などが整備されています。

 ハワードが考えたガーデンシティにおいて、土地は共有あるいは公有です。そのため不動産や土地の価格は大きく上下しません。そこに住宅が建っており、19世紀の社会改革運動の流れを受けていました。その後、ガーデンシティはアメリカ、日本、フランス、ドイツに同時期に広がっていきます。
 アメリカでは1906年のサンフランシスコ大地震の後、セントフランシスウッドという高級住宅地をオルムステッドブラザーズ(右下写真)が開発しました。ここへは、渋沢栄一の息子である渋沢秀雄が視察に行っており、これを見て、東急田園都市株式会社を創立することになります。
 その他にも20世紀の初頭にアメリカでは色々な動きがあり、近隣住区理論が唱えられ、最初のショッピングセンターであるcountry club districtが整備されました。

1-2 日本での都市計画・田園都市

 渋沢秀雄経由とは別に、日本へは明治41年、内務省の官僚が『田園都市』という考え方を伝えます。ただし、この時伝えられたものはハワード本人の論文ではなく、セネットが書いたものが省略されて伝えられました。
 田園都市株式会社は大正7年に創立されます。

 関西に目を移すと、江戸時代末期の大阪の船場豪商たちは、帝塚山や天下茶屋などに別邸を保有していました。明治維新により近代化が進んでいきますが、船場豪商達は別邸を手放すことなく維持していました。そしてその後、彼らは阪神間にも目を向けていきます。
 別邸は、今では想像できないような規模のものもありました。敷地約4000坪の超大邸宅、敷地約1000坪~3000坪程度の大邸宅、それより面積が小さいものを邸宅と呼び、御影山手、住吉山手周辺ではそのような規模の別邸が建設されていきます。また、船場や大阪の商人にはネットワークがあり、情報交換をするための倶楽部社会も成立していきます。
 朝日新聞の社長であった村山龍平が保有していた村山龍平邸(右上写真)は、今は香雪美術館という美術館になっています。余談ですが、中之島にある朝日新聞のビルの中には、香雪美術館の分館が出来ています。
 現在の住吉山手には、かつて観音林という地名があり、そこには観音林倶楽部(左下写真)という移住者たちのクラブハウスが建設され、クラブコミュニティが形成されていきます。
 これらの別邸を保有する人達は、元々阪神間にあった旧集落の人達とは全く違う暮らしをしていました。20世紀初頭からこのように別邸が建設されたため、次第に郊外=高級だという刷り込みができていきました。村山龍平は1901年に引っ越しをしており、「村山龍平のようなお金持ちが引っ越すのだから、郊外は金持ちが行くところだ」というようなイメージが形成されたのだと推測されます。
 ただ、この頃はまだ計画論が成立しておらず、住宅地計画は未熟です。

1-3 私鉄による沿線開発

 そのような別邸の開発がされていく状況に対して知られているのが、阪急電鉄の前身であり、小林一三が経営していた箕面有馬電気軌道です。箕面有馬電気軌道は明治43年から池田室町の分譲を始めます。
 JR東海道線は、大阪-神戸間が明治7年に開通し、明治22年に新橋-神戸間が全通しますが、国土幹線としての意味合いが大きく、沿線の駅の数は少数でした。箕面有馬電気軌道は、彼らの都心と郊外の通り道に宝塚線を敷設し、都心には阪急百貨店、郊外には宝塚市民温泉や宝塚少女歌劇を作りました。
 鉄道会社は利益を上げるために、電車に乗ってもらう必要があります。小林一三は鉄道利用を促すために、都心と郊外に目的地・消費させる場所を作ったのです。同時に沿線の不動産開発、住宅開発も行っていきます。土地を安く仕入れて、鉄道を敷いて地価が上がったところで不動産事業をする、というのが箕面有馬電気軌道の基本的な戦略です。
 箕面有馬電気軌道が最初に分譲したものが池田室町(右上図)です。箕面有馬電気軌道は、図面の真ん中のあたりにある呉服神社を取り囲み、ここも住宅地の一部だと言わんばかりに開発を行っていきます。
 また、住宅ローンができる前の時代では、月賦販売というものがありました。「中級サラリーマンの支払う家賃と同等の月々支払いで土地を買え、なおかつ間違いなく土地の値段が上がる」というような売り出し方をしていました。当時の室町は都心生活利便施設もなかったため、クラブという集会所や購買組合など様々な利便施設をセットにして開発をしていました。
 不動産分譲に関しては様々な工夫がなされていましたが、先述のように神社を取り囲むような配置計画であり、ここでもアーバンデザイン的な工夫はされていないです。環境面においては、周囲の自然環境に依存していました。
 余談ですが、大正のこの頃、先進的なモダンな教育への関心が高まり、大正11年に、橋詰良一という人物が呉服神社の境内を使った野外保育所を実施しました。

 これに先立つ阪神電鉄は、沿岸部の旧集落の地主土地を取得しながら鉄道敷を確保し、明治38年に大阪-神戸間が開通します。
 両社の沿線開発には違いがあります。阪神電鉄は既成集落を繋いでいたため、線路がグネグネ曲がっており、駅間距離が短いです。それに対して箕面有馬電気軌道は、未利用地を買収して不動産開発等を行っていました。開発については圧倒的に箕面有馬電気軌道の方が賢かったというわけです。

 また、当時の人達は「郊外に居住する」というイメージは持っておらず、「働いている所の近所に住むのが1番、当たり前だ」という考えが一般的でした。
 日清戦争や日露戦争が終結し、産業革命を経て富国強兵を行っている時代、都市部の居住環境はどんどん悪くなっていました。『市外居住のすすめ』という本では、大阪医科大学(現、大阪大学医学部の教授たち)によって、都心生活の健康悪化への懸念が記載されました。また、郊外生活の楽しみが記載された冊子も作られ、「今沿線にこんな文化人が住んでいる」「こんな人が引っ越して来ました」など、現在では絶対に掲載できないような情報も書かれていました。箕面有馬電気軌道もほぼ同じ時期に『山容水態』というライフスタイル冊子を作っています。
 両社は、延伸した線路の周辺に住んでもらうため、このような郊外居住キャンペーンを行っていたのです。

 鉄道会社による様々なタイプの住宅地が開発され、鉄道会社とは関係のないデベロッパーも現れていきました。鉄道会社やデベロッパーだけに金儲けをさせないために、地元が土地区画整理組合を作るケースもありました。
 そのような沿線開発の黎明期を経て、ようやくマスタープランや住宅地計画を考慮した開発もみられるようになります。武庫之荘の駅前のロータリーや雲雀ケ丘の駅の街路樹とメインストリート、赤い屋根の洋館をランドマークとした特徴的な開発などがあげられます。

 戦前の住宅地開発は「郊外ユートピア」を作ろうとしていたと言えるでしょう。なかには、不思議な郊外住宅地が開発されていました。
 箕面有馬電気軌道が開発した石橋温室村はその一例です。温室付き住宅を顧客に販売し、温室で育てたカーネーションを阪急百貨店で販売するなどしていました。同時期、鶏小屋を併設した住宅などの販売も行っていました。
 鉄道会社間の競争が生まれ、それぞれに特色を持たせるために、様々なアイデアの出し合いが起こり始めた時期でもありました。

 六麓荘は大金持ちのイメージを持たれています。六麓荘の石垣に使われている石は、全てその場所で掘り出されたものです。戦前での斜面開発においては、造成できる重機が多くなかったため、処分できない花崗岩や御影石は、石垣や庭石として再利用されていました。それが結果的に地元の素材を用いたランドスケープをつくる基礎になっていました。

1-4 沿線のコンセプト開発:リゾート

 リゾート開発も並行して起こってます。先ほどの箕面有馬電気軌道の宝塚新温泉や苦楽園、香櫨園遊園地などが代表事例です。
 香櫨園遊園地は、今の阪急夙川駅のすぐ南にありました。阪神電車にも香櫨園駅がありますが、阪急電車に比べて遠い場所に位置します。阪神電車の方に香櫨園という名前がついているのは、当時は阪急神戸線がなく、阪神電車から歩いて香櫨園に行っていたためです。
 香櫨園遊園地にあった片鉾池は現在でもみられます。当時はウォーターシュート等が設置してあり、リゾート開発を意識していることが分かります。
 スポーツについては、阪神甲子園の開発が注目されます。阪神電車沿線に浜甲子園団地がありますが、現在の浜甲子園団地の敷地には、もともとゴルフ場と競馬場があり、その後、第二次大戦中は川西航空機の工場の滑走路になります。ゴルフ場、競馬場が建設されたのは、国内においても非常に早い時期でした。
 リゾート系の開発はかつて盛んに行われていましたが、時代が進むにつれ、住宅地に変わっていきました。

有賀
リゾート施設がなくなったのは需要がなくなったからですか?

角野
 競争相手が他にできていったからです。
 リゾート跡地は、基本的に住宅地になっていきますが、リゾートのイメージはウリになるんです。今でも末尾に「園」がつく地名が7カ所あって「西宮七園」と呼ばれていますが、その多くは元々はリゾート地でした。


 リゾート開発を仕掛けたのは、鉄道会社以外にもあったのですか?

角野
 例えば、香櫨園遊園地の運営会社は大阪で砂糖を売っていた会社です。鉄道会社以外の人達が、鉄道の恩恵にあずかり経営していたケースもあります。六麓荘の開発も鉄道会社は関係ないです。

古庄
 関東の私鉄だと、小田急電鉄だと箱根、東武鉄道の日光東照宮などリゾート地と都心部を繋ぐ沿線が多いですよね。

角野
 関西では、鉄道会社には様々なタイプがあります。
 阪神電鉄は都市間鉄道です。南海電鉄はリゾートと高野山をつないでいます。近鉄は伊勢神宮への参詣鉄道、能勢電鉄は妙見山への参詣鉄道です。参詣鉄道は、関西にもたくさんあります。

1-5 沿線のコンセプト開発:健康

 また、この時期の郊外開発において、「健康」は重要なキーワードです。
 毎日新聞社は、健康住宅設計コンペを昭和4年に大阪と東京で開催します。そして、浜甲子園健康住宅実物展覧会を開催しながら、浜甲子園の住宅開発をやるんです。
 阪神電鉄は、全体の開発利権は持っていましたが、その一部を大林組に譲り、大林組は阪神電鉄の路線に協力する形で住宅地開発や設計等に携わります。戦前の大林組はこのような形で様々な住宅を手掛けています。

1-6 沿線のコンセプト開発:阪神間モダニズム

 阪神間モダニズムという言葉を聞いたことはないですか?大正モダニズムという全国的な動きの中で、阪神間で見られたものを阪神間モダニズムと言うんです。
 阪神電鉄、箕面有馬電気軌道(阪急電鉄)、JR宝塚線の沿線に引っ越してくる人たちは、船場豪商や商社勤務者、軍人などが多かったです。彼らは、船場文化を引き継ぎながら、新しくハイカラな独自の暮らしを求めていました。
 例えば、ホテルパインクレスト/パインクレストアパートメントという建物が現在の阪急夙川駅の近くにありました。アパートメントと書いてありますが、当時のアパートメントはオシャレでハイカラなものだったんです。やはりここに住んでいる人も銀行員や商社マン、軍人でした。そのうえ、「転勤族で東京から来るけれど地理がよく分からないから、しばらくアパートメントに入居してじっくり家探ししようか」というケースもあり、ここでも情報交換のための倶楽部社会が成立します。
 パインクレストのレストランはすごく有名で、宿泊しない近所の人も訪れるほどでした。また、それらの店では西洋料理の料理教室も開催されていました。このほか宝塚ホテルなどは、宝塚少女歌劇やゴルフ場、宝塚ゴルフリンクスと繋いで経営しており、暮らしの拠点として整備されていました。そのようなホテル文化が続々とあらわれていました。

 1920年代の阪神間では、写真家の中山岩太や具体グループの吉原治良、小説家の谷崎潤一郎などが登場しました。『ファッション』という雑誌もでき、芸術を始め様々な文化的な活動が行われていました。また、建築分野においては、ヴォーリズやフランク・ロイド・ライト、村野藤吾がいました。
 阪神間には、関学や神戸学院などの私学もたくさんありました。これらの私学の学校は、土地をたくさん持っている地元の酒屋さんが経営していることもありました。
 一方、この頃の東北の方では飢饉により飢え死にするような人達がいる時代で、阪神間の様相とかなり異なっていました。

2 鉄道事業者の事業展開

2-1 鉄道各社の開発事例

 阪神電鉄が力を入れて開発したのが甲子園です。かつて武庫川は、現在のJR甲子園口駅の辺りで枝分かれして、枝川という川を形成していました。
 阪神電鉄は、大正時代に武庫川の枝川を埋め立て、河川敷跡の開発を行います。その結果、大正13年に甲子園球場が建設され、周辺にはテニスコートやグランド、遊園地、水族館などができました。
 甲子園開発では、阪神電車の本線より北側を高級住宅地とする計画を打ちたて、その最北端に甲子園ホテルを作ります。甲子園ホテルができるまでのいきさつは次のような感じです。
 東京にある帝国ホテルの支配人・林愛作はライトを招聘し、帝国ホテルの建て替えを計画します。ただし、工期がどんどん延び経費は増大する一方となりました。次第に帝国ホテルは赤字になり、林愛作は責任をとって帝国ホテルを辞めさせられました。
 林愛作は帝国ホテルをやめた後もホテル愛は強く、帝国ホテルに負けないようなホテルを関西につくることにしました。阪神電鉄は林愛作を招き、林愛作がライトのもとで働いていた遠藤新を「帝国ホテルの設計してたよね?今度は自分でホテルを設計しない?」と言い、連れてくるわけです。
 元々、阪神電鉄は別のところで大衆的なホテルをつくるつもりでしたが、遠藤新と林愛作が「日本で1番良いホテルをつくる」と説得したことで建設されたのが甲子園ホテルです。
 当時の関西には、財界人が泊まるようなホテルが他になかったため、甲子園ホテルに財界人が集中し、拠点になります。昭和5年にオープンした甲子園は、ヘレンケラーやベーブルース、リットン調査団などが宿泊しましたが、ホテル経営をしていた時期は極めて短かったです。閉館後は、海軍に接収され海軍病院になるなど、複数の用途に転用されて現在に至ります。

 次に南海電鉄の代表事例を見ていきましょう。南海電鉄の歴史は、阪神電鉄や阪急電鉄に比べて圧倒的に古いですが、不動産開発をほとんどしておらず、別の土地会社である関西土地が北野田で大美野田園都市の開発を行っていました。
 右図のプランのようにロータリーや広場、放射状の道路があり、真剣な都市開発をしていた様子が今でも確認できます。

 次に、新京阪沿線(北千里線、京都線、京阪電車を含む)の代表事例を見ていきましょう。
 1920年、大阪住宅経営という土地会社が千里山住宅地を開発します。その後、大阪住宅経営は、線路を伸ばした新京阪鉄道に買収されます。さらに、新京阪鉄道は京阪電鉄に吸収合併されます。
 また、新京阪鉄道(京都線)沿線でも、神崎川や正雀で住宅地が行われます。神崎川などは、田園調布とよく似たプランで、駅前に広場があり、同心円の放射状になってます。
 また沿線への大学誘致は、鉄道経営者にとっては、重要な仕事であったようです。

 最後に近鉄沿線の代表事例を紹介します。
 伊勢の方は参宮鉄道という参宮路線でした。近鉄の前身である、大阪電気軌道と大阪鉄道はそれぞれ菖蒲池遊園、生駒山上遊園を開発していました。そのほか、ブルーノタウトを招聘し、生駒山嶺小都市計画という計画も立案しています。
 近鉄の中でも、最も大きい開発が戦後の学園前住宅地です。ただし、学園前は坂道が多いため、配置計画や造成が難しかったようです。

2-2 鉄道会社の沿線まちづくり

 戦前、鉄道会社の創業期は沿線価値の創出が主であり、鉄道経営が中心でした。また、鉄道に伴う発電事業を行い、沿線で電気を売っていました。また、郊外リクレーションのための人の輸送、学園誘致、学校経営、そして都心ターミナル経営も行っていました。
 そして既成市街地の沿線化も行っています。阪神電鉄は旧集落を通し、自分の仲間にしていこうと考えていました。それが沿線拡幅や電気供給、バスやタクシーの経営など、事業を拡大することに繋がります。阪神電鉄は当初は分譲ではなく借家経営をしていました。
 生活全体を支援することをこの時期から始めていることがわかります。
 郊外生活の支援のために購買組合等の組成、無料乗車券の配布をするなどの取り組みも行われていました。

 高度経済成長・安定成長期は、沿線価値の拡充に重きをおいていました。
 戦後、日本は圧倒的な住宅不足に陥ります。もちろん鉄道会社だけでは全てカバーできないため、京阪電鉄は戦前から保有していた土地を住宅公団に渡し、住宅公団が香里団地の開発を行っています。住宅地開発を後押ししたのは公庫融資です。
 阪急電鉄は養鶏村や温室村、京阪電鉄はテレビ付きの住宅、バラ園付きの住宅など、付加価値を持たせた住宅の開発も行っていました。やがて、企業グループの強みを生かし、大規模開発やマンション開発にも参入していきます。
 また鉄道会社は、百貨店やショッピングセンターを持っていますから、郊外駅の駅前経営、高架下活用、飲食店やスーパーの経営もしていました。
 それから、既存事業への拡充、新規事業への進出も重要です。例えば京阪電鉄はリゾート開発に進出し、瀬戸内海の与島でサービスエリアの開発などを行っています。旅行業は戦前もありましたが、戦後の旅行ブームの影響で各電鉄会社が進出していきました。

 そして近年の低成長期の事業展開では、沿線価値の再構築に重きをおいています。郊外人口が増えないという課題を抱えた各社は、沿線価値の再構築が喫緊の課題です。
 また各社は、様々な事業へ手を広げすぎた結果、不採算事業からの撤退などを進め、限られた資本をどこに投資するか意識的になります。南海電鉄は難波周辺への投資に注力していきます。
 ただ、郊外開発が全て無くなってしまった訳ではなく、保有している土地の有効活用方法を模索しています。収益構造の転換を行うことで沿線外への注力を検討し、不動産部門の再選を検討している状況です。阪急グループの不動産部門は完全に別会社となっています。
 どの鉄道会社でも共通しているのは「鉄道会社は沿線からは逃げられない」ということです。関連する沿線企業とタッグを組んで、価値の向上を図り、居住者が転出しないような取り組みを行っています。
 近年は、戦前~高度経済成長期に付き合いがあった企業以外にも、新たな企業と関係を持ち、新しい事業開発を展開しようとしています。

 ここまで話したことを年表にするとこのようになります。
 鉄道会社がどのような事業をしていたのか、ジャンル別に並べています。1枚目が電鉄そのものにおける運輸、それから次が情報発信、文化、教育、その次が観光、レクリエーションです。2枚目が宿泊、商業不動産、その他です。
 1枚目を見ると、19世紀の終わり頃から鉄道会社が始まります。関西の鉄道の話をすると、小林一三ばかり褒められますが、実は他の会社も横並び取り組んでいます。


小林一三はほかと何が違ったんですか?

角野
違いはそんなになく、みんな小林一三の真似をしたって言うことです。


 なるほど。

角野
 駅前再開発には時間がかかりますし、沿線の不動産開発は、土地を仕込む時期必要ですので、急に事業を進めることはできないんです。また、先ほど言ったインターシティの鉄道と都心とリゾートを繋ぐ鉄道では、やはり戦略が微妙に変わります。それに鉄道会社は、戦時中に国の政策で再編させられ、戦後完全に元に戻らずに現在の体系になっていくという混乱はあったのだと思います。
 最近あった新しい動きとしては、クレジットカード、グループカード、グループポイントなどカードビジネスと繋げるというのを各社すごい勢いでやっています。阪急電鉄と京阪電鉄のカード会員向けのアンケートを実施したことがありますが、その結果からカードによって顧客の囲い込みをしようとしているのが、ここ20~30年の動きかなと思います。
 それと新サービスとして、幼児教育、子どもの見守りなどが出てきています。さらにもっと新しいのが農産物生産者との連携です。まだ全く儲けが出ていないですが、田舎と繋ぐといったことにも挑戦しています。コロナ禍になってコワーキングスペースを作ったりもしていますね。
 事業単体では儲からないことが分かっていても、それらのサービスを含めて「沿線全体で生活支援してますよ」というイメージを作りたいように感じます。

新津
 鉄道会社業界のターニングポイントは、戦争や高度経済成長などがあると思います。鉄道会社ごとに特有のターニングポイントはあるのですか?

角野
 第二次世界大戦は大きなターニングポイントです。80~90年代に鉄道会社の動きが変わってきた実感があります。バブル経済が終わった後は、不動産事業ばかりやっていられない、ということにもなりましたし、この頃は、意識的にプラスαの事業に取り組み始めている印象があります。


 沿線の生活サービスやクレジットカードなど、競合が多い事業に参入していますよね。鉄道などのインフラを持っているところから、一般の事業に入っていくことにあまりメリットを感じないと思うんですが。

角野
 だから、彼らは全てを内部化する気はないんです。地元で活動している企業とどう組んでいくか、鉄道会社の最大の武器は、逃げられないが故の安全に運行しているという信頼感です。そのような信頼感のある鉄道会社と一緒に行う事業というのは、協働する企業としても一定の安心感があると言えるのでしょうね。

3 戦後の郊外

3-1 団地の誕生

 次は、戦後の郊外についてお話しします。
 戦後に国内住宅需要が急増するのは先ほどお話した通りです。そのような全体の住宅量が不足する中で、実は民間自力建設が一番数が多いんですよね。公営住宅、公団住宅、公庫住宅、という3つの柱で、住宅供給をして行くんです。
 郊外住宅地に求められていたものは、公営住宅や公団住宅等の賃貸ではなく、広い戸建てで、家族構成等にも対応できるようなものを供給しましょうねということでした。郊外で庭がある一戸建てを買う、というのが人生の一つの目標みたいになっていく状況が起こったわけですね。

 1955年には日本住宅公団が作られ、公団住宅団地が誕生しました。その前、昭和25年頃から公営住宅ができていきます。当時、公団住宅はすごくハイカラでオシャレなもので、水洗トイレとダイニングキッチンが装備されていました。東京のひばりが丘団地に皇族が訪問するなど、国も意識的にキャンペーンをしていたのです。
 昭和30年代から40年代初めにかけて団地のライフスタイルや価値観が成立し、団地族のようなイメージが作られていきます。戦後の高度経済成長期には、地方から大都市圏に人が集まってきました。郊外の戸建て住宅が位置づけられ、鉄道会社がかかわりを持ち、さらにハウスメーカーなどが誕生しました。

 生活学者である今和次郎は、1959年頃に団地論を複数唱えており、「団地というものは造形的ないかにもまとまった印象を呈しているのであるけれど、そこに住みついている人、人の家庭の暮らしは、孤立的だといわなければならない」と言っています。もう1つ面白いのは「まるで漁村風景だ」と言っているんです。団地批判が始まっているわけですよ。60年代になる前に既に団地論というのが起こっているのはすごく面白いな、と思いました。

これは住宅双六です。

 これは、大阪市立大学におられた水内先生が整理された戦前の鉄道沿線の住宅開発図に戦後の大規模郊外開発を重ねたものです。
 冒頭にお話しした都心から20km圏ぐらいまで開発が起こっていることがこちらからも読み取れます。戦前の開発エリア(上資料)はこれぐらいの規模しかないんですよ。それが、戦後(下資料)になるとこんな風に広がっていきました。これを支えているのは基本的には鉄道と道路です。
 大阪でも神戸でも「このエリアの中を支えればよい」というのがありましたが、エリアがこれだけ広がった時、都心部の役割はどう変わるべきかという議論が必要になってくるんです。

3-2 成立過程からみた郊外住宅地の類型/プロセス

 これは、成立過程から見た郊外住宅地の類型のモデルです。左の円が都心で、黒い点線が鉄道を示しています。
 戦前に開発されたゾーンは内郊外(インナーサバーブ)です。その後、高度経済成長期に外郊外(アウトサバーブ)、バブル期に超郊外(リモートサバーブ)まで開発されました。今は、この開発を収縮せざるを得ない状況になっていますが、どのような形で収縮していくかが大変重要になるわけです。

 郊外開発変容プロセスを、戦前の内郊外、高度経済成長期の外郊外、そしてそれ以降の超郊外というふうに分類してみたとき、このような変遷がみられます。
 戦前(誕生段階)では内郊外で「こもる郊外」、いわゆるブルジョワユートピアを作っていました。地元との付き合いがあまりなく、まさに籠って暮らしていたんです。
 戦後(成長段階)になると、外郊外でニュータウン開発が始まります。それと同時に内郊外は相対的なイメージアップが起こります。
 更にバブル期(変容段階)に近づくと、超郊外に開発が拡大していきます。相対的に外郊外のイメージアップに繋がり、憧れの外郊外になっていきます。
 郊外の開発がこのように変化していくと、内郊外、外郊外、超郊外が複数の段階で同時に存在することになります。町へのこだわりから、「通勤に片道2時間掛かってもよい」という価値観だった訳ですが、人々は自由に選べる人、選べない人に分かれ、選べない人は外へ外へ行くことになります。郊外というのは、そのようにポジションを持って行ったわけです。
 ただ、今はそうではなく、それぞれの郊外がどのように変化していかなければならないか、それぞれの住宅地が自身で決めていかなければならないんです。
 今まで話してきたように、鉄道会社は誕生段階から変容段階から全てに関わってきました。責任を取る必要があるのです。

3-3 住宅地デザイン

 郊外開発が遠隔化すると、新たな魅力づくりが求められるようになります。住宅も結局のところは商品であり、その時代ごとの商品企画が求められます。近年は、環境共生やコモンズなどへの関心が拡がっています。

 更にハード面だけでなく、ライフスタイルや生活スタイルそのものを商品化していこうという取り組みがあります。写真は北九州市の自衛隊の駐屯地の跡を開発した事例です。
 クラブハウスのような拠点施設を作り、家庭菜園も用意するような開発をしています。

 これは、戦前の雲雀ケ丘(宝塚市)のメインストリートです。このメインストリートそのものは今も残っています。
 もちろん沿道は、戸建て住宅から低層集合住宅に変わっています。こういった変容を考える時、変わるものと変わらないものは何なのかを考える必要があります。基盤になる街路や街の中の小さな神社等はそう簡単に変わらないですし、それらをどう活用していくかということが重要になります。

 右の写真は、雲雀ケ丘(宝塚市)の一角の写真です。旧安田邸という建物ですが、宝塚市に寄付されたものの手入れがされず荒れています。このような洋館が街中に残っているのですが、宝塚市もどう活用して行けばいいか分からない、といった状況になっています。地元は保存の意向があるが、そのようなお金は残っていない状況です。

 一方で新たな分譲が進んでいます。ブランド力のある場所は「少々無理してでも住みたい」という人がいるんやなぁと感じます。

 これは別の住宅地ですが、多くの郊外住宅地には空き地のままになっている場所もあります。

 これは川西のある団地の写真です。「おもいでの地」って書いてありますね。昔幼稚園があった場所です。幼稚園の土地が分譲された後も、このように一角だけ残しているんですね。

 団地の中に空き地があるにも関わらず、その団地の縁辺部では、写真のような宅地開発がされています。へた地のような場所のため、安く建設できるため売れるんですよね。このようなものは何とかならないか…と思います。

4 都心ターミナルと郊外

4-1 都心の構造

 次に、都心ターミナルの話をします。
 左図は、1906年の京都の街の図面です。明治末頃には、このような街路網が新設されました。

 平安京の朱雀大路は現在の千本通のあたりでしたが、近代に至るまで西側は市街化が進みませんでした。もともと平安京の右京は湿地帯で何も無かったのですが、中心部はどんどん東に移っています。
 右図の赤く塗ってあるエリアは街の真ん中です。現在の京都駅は、図の中心より少し下側の紫や水色に近いところに位置します。街路連絡網が新設され、平安京の千本通があるような状況では、京都駅は中心地から外れた位置にしか成立しなかったのです。

 こちらは、近世の大阪です。非常に大雑把に言うと、右半分は豊臣秀吉が作った市街地、左半分は江戸期に拡大した市街地です。梅田を始め、北の方にも広がっていくのはご存じの通りです。地図を見てもらうと、現在大阪の中心となっている、大阪駅や難波などは、基本的に色がついていないところになっています。
 図中にある赤い丸は、大阪七墓というお墓です。お墓ですから当然まち外れに位置した訳です。現在の梅北周辺にもお墓がありました。今、梅北の工事が進んでいますが、骨がいっぱい出てきているようです。
 京都や大阪に限らず、国鉄や私鉄はまち外れにしか駅を作らせてもらえなかったんです。今でこそ、阪急四条河原町など街中にある駅もありますが、最初から入り込んでたわけではないです。少しずつ入れてもらったんです。街の端の方に遠慮がちに駅を設置しておいて、じわじわと街中に入り込んでいくんです。

 逆に、設置した駅の周りを市街化していく、といったことも多くの街で起こりました。例えば梅田もそれにあたります。
 戦前の時点で大阪駅前はある程度市街化されていましたが、第二次世界大戦の影響を受け、一度は焼野原になっています。それでも街路パターンはこのころから変わっていないことは面白いです。

有賀
 それでも大阪駅の場所は今と少し変わっているんですね。

角野
そうなんです。今の大阪駅とはズレてますよね。ただ、大阪駅の軸線を意識して、将来的にどんどん歩行者空間化していこうとしていることが昭和初期の街路計画や構想から読み取れます。
 千日前ビックカメラがある辺りは、江戸時代はさらし首の場所だったんです。建て替えの時には必ず骨が出てくるという状況があったみたいです。


 難波新地はお墓の跡地なんですか?

角野
 盛り場開発は、その地の匂いを消すための手続きなんです。墓場やお寺の跡に家を作ってもなかなか住まない、住んでもらえないんです。むしろ盛り場などなら、なんとかなるやろというような考えがあったようです。千日前や京都の新京極はそれらの典型です。

 江戸時代の都市構造は、大阪城に向かう人や物の流通のため、東西軸でした。
 船場や中之島があって、南組、北組、天満組という3つのグループに分けられていて、東西軸がはっきりしていました。ところが、北と南のまち外れにターミナルが出来たことで、東西軸が南北軸に変化していきました。
 今は梅田と難波を繋ぐ御堂筋がメインの軸ですが、御堂筋が拡幅されるまでは、堺筋が中心でしたよね。四ツ橋筋や上町大地が少しずつ西に広まっていくようになっていました。
 埋立地のプロジェクトは、ものすごく早い時期から始まります。西の方にはベイエリアがあり、1980年頃はテクノポート大阪構想っていうのがありました。そのころには、夢洲、咲州、舞洲という3つのネーミングも出来ていたんです。咲州では人工のキャナルをとんでもない金額を掛けて開発したのに、今ではほとんど使いものに…


 まだ残骸ありますもんね。

角野
 その時の委員会に参加していたのですが、ミュージアムや結婚式場、葬儀場など様々な活用が議論されていました。大阪オリンピックの誘致の話もありましたね。ベイエリアの活用については、40年以上前から議論がされていますがなかなか活用方法が決まらないですね。
 航空写真で大阪のまちを見ると、都心の川は堀のように埋め立てられてしまっているので、海辺こそが水の都といえると思います。ただ、大阪のベイエリアは、都心から遠すぎるんです。
 「梅田や難波は地下鉄ですぐにいける」「距離が近い」と言う人はいっぱいいますが、ベイエリアは隔てられてしまっているイメージがあるんです。安治川や尻無川など、隔てられているイメージがある空白地帯を表に出していかないと、ベイエリアの復権は難しい気がしています。神戸や横浜と比べても、大阪はベイエリアと都心との距離が1番遠いんです。


 私たちも水都大阪に取り組んでいる時、同じような問題意識を持っていました。だから中之島ゲートで実施したんです。


4-2 路線タイプと駅のタイプ

 都心ターミナルと郊外が構造的にどのようになっているかをお話します。
 鉄道は、インターシティという都心と都心を繋ぐ路線と、都心と末端を繋ぐ路線があります。末端はニュータウンになっている場合もあれば、別の都市や行楽地なども考えられます。当然、鉄道路線の構造、都心環状線、郊外路線、行楽地路線は重なるようになってきます。
 これは、それぞれの駅がどのような役割を持ちうるか、どのような役割を持たせることが有利かということを整理した図です。
 都心ターミナルは、集中的に利用されます。ただ、先程話した通り、都市圏の人口縮退や通勤圏の分散が起これば、何でもかんでも都心に役割を持たせることに疑問が出てきます。今まで、ニュータウンのセンター地区(延伸前の千里中央、西神中央など)は郊外の暮らしの拠点として成立はしていましたが、結局は都心に人が流れる。ところが都心機能が弱くなると、都心での消費行動も弱くなるんです。そのため、都心の戦略をどうするかが重要になります。
 もうひとつ注目すべき点は、大都市間拠点駅です。阪急電車高槻駅、京阪電車枚方駅などが該当します。そういった場所ではどのような形で何を作ればいいのかを考える必要があります。
 拠点隣接駅についても考える必要があります。都心ターミナルほど地価が高くないため、賃料も高くない、しかし各停しか停まらない、という状況になります。目的性の高い施設やお店を誘致することで、乗り換えてでもわざわざ訪れてもらえる場所になる可能性を秘めており、ちょっとしたチャレンジの場所になります。
 都心ターミナル、末端拠点駅、大都市間拠点駅、拠点隣接駅のそれぞれの関係性は重要で、その関係性は色々考えられるんじゃないかな、と思っています。

5.沿線価値増進戦略

5-1 東西大手私鉄の比較

 これは関東、関西の大手私鉄の比較をした表になります。ただ、輸送人員が全く異なるため、売上などは簡単に比較できないです。比較をしていこうと思うと、鉄道会社へのヒアリングや、東西の鉄道会社の特性をもっと知る必要がありますね。
 ここでは、関西の大手5社の比較を見ていこうと思います。旅客営業距離は近鉄が一番長いです。次いで、南海電鉄、阪急電鉄が長いですね。1番短いのは阪神電鉄で、神戸と大阪の間程度の沿線距離です。
 輸送人員については、阪急電鉄が一番多くなります。ただし、関東の方にある東急電鉄と比べると、最も数が多い阪急電鉄でも東急電鉄の半数程度に留まります。阪急電鉄と東急電鉄は同じイメージで語られることも多いですが、数字で見ると必ずしもそうではないです。
 また、関東の方に目を向けると、小田急電鉄や京王電鉄は郊外路線をたくさん保有しています。鉄道会社に提案をする時や、駅の役割を示すときはこういった基礎的な知識を知っておく必要があります。

 東西大手私鉄をまとめると、関東が関西と決定的に違うことは、相互乗り入れをしていることです。相互乗り入れは便利な反面、相互乗り入れ前は停車していた駅が相互乗り入れ後は通過されてしまう、といったケースもみられます。
 都心開発についても面白く、関東は専業のデべロッパーが開発をしていますが、関西の場合、専業のデベロッパーはほとんどおらず、各私鉄がターミナル開発をしています。

5-2 都市の縮退

 今まで、拠点駅、郊外の拠点駅について話をしました。これからは、郊外のライフスタイルや消費行動はどのように変化して生きているかを考えながら開発を進めていく必要があります。

 今後は都市圏そのものが縮退していくと思われます。縮退によって人口の流動化が起こるかもしれません。その中でもライフスタイルや家族のタイプによっては移動できない人も出てくるでしょう。人が階層化され、それに合わせて土地利用転換が進んでいくことが予想されます。土地利用転換においては、用途混在や駅周辺の高度利用が進む恐れがあります。
 これらの事象が起こるまでに、六麓荘のように郊外を高級ブランド化できていれば「そちらに住むぞ」という人も現れるかもしれません。しかし、大半の郊外住宅地は専用住宅地ではなく、ある程度の用途混在や多様な住宅タイプの混在を進めなければ、存続はしづらいのではないでしょうか。
 そうすることで、郊外の専用住宅地が普通の街になります。実はこれが1番幸せじゃないかなと思っています。

5-3 私鉄による沿線ブランドの構築

 鉄道会社は「沿線ブランドを構築し、沿線価値を向上したい」とずっと言っています。
 左表は、今まで話したことをまとめています。何度も話している通り、沿線戦略は、どの鉄道会社でも同じようになっています。
 郊外の渋谷化というのは、戦前、郊外が情報化していった際、一見オシャレな若者世代を意識した物販やスーパーがどこでも展開するようになったことを指しています。今やどこに行ってもスタバがありますもんね。どの郊外も渋谷や阪神間を目指しているようにしか見えていなくて、それって本当に大丈夫かな、と心配になります。戦前や高度経済成長期初期にあった「明るく健康的な郊外」についても実現は難しくなっていると感じます。こういったことが今後の郊外戦略を考える上で大きな壁になっています。
 これに対し、鉄道会社はどのような戦略を打ち立てて行けばいいのか。
 1つめは、今の形の沿線価値の強化です。今まで鉄道会社は色んなものを繋いで来たんだから、鉄道以外のものと繋ぐことにもノウハウを持っているはずです。それを売りにしたらいいんじゃないか、と思っています。
 2つめは、移動時間の活性化です。移動時間でできることをもっと追及することで、今までとは違う性格を持つ公共空間を考えられるのではないかと思います。
 3つめは、「明るく健康的な郊外」や「阪神間モダニズムにより均質化された郊外」とは違うもの打ち出してはどうかと思います。戦後の郊外の均質化について批判的な意見がたくさん出ていますが、既に郊外は均質ではなくなって来ています。それなら多様性やカウンターカルチャーを含んだコンセプトを打ち出していくなどしてもよいと感じています。
 4つめは、地元住民に新しい動きを評価してもらうことです。例えば、阪神間なら今でもだんじり祭りなどがあるわけです。それを支えてる地元の住民達に共感してもらうことが必要なのです。

 京阪グループでは、沿線を強化するような方針を打ち立てています。

 近鉄グループの方針は地味です。あべのハルカスやてんしばなどは、各社とも無視できない存在になっていますが、都心競争、ターミナル競争に力を注いでいるようにみえます。これは南海電鉄も同様です。

 抽象的な話になりますが、駅の拠点化方策としてこのようなことを考えています。
 駅はフルスペック型、テーマ型、トランジット型の3つのタイプに分類されます。ターミナル型は、色んな要素を持っている大型の駅を指します。テーマ型は、特定の機能を意識した駅です。例えば医療、病院関係、学校、大学、特定の企業の本社(二子玉川の楽天)、特定の企業の関連企業などが考えられます。トランジット型は、投資を避け、乗り換えを徹底的に便利にした駅です。
 それらの3つのタイプに、右に示すような細かなコンセプトを加えていってはどうか、と考えています。

5-4 沿線型コンパクトシティの展望

 ターミナル駅、郊外拠点駅、隣接駅が都市圏の基本的な構造です。それぞれの駅には生活支援機能や沿線魅力増進機能など、重視されるべき点は様々です。今後の都心の縮退に間に合うよう、複雑になっている沿線をどのようなコンパクト化を図るかが重要です。縮退は都心を中心に同心円状には発生しません。
 高度経済成長期に、郊外はどんどんメタボ化してしまいました。線路という脈があり、その脈をいくつかの節に向かって縮退していけば、沿線としてグラマラスな体系になるかもしれないですね。

5-5 新遊民の誕生

 これは1970年代と2000年代の住宅双六です。既に「上り」がたくさんできてしまったため、2007年に上田篤先生が新しい住宅双六を作っています。
 これからは、それぞれの郊外がどの「上り」を目指すかを考えないといけません。「上り」は1つじゃなくてもいいかもしれません。外国定住、都心マンション、自宅生涯現役、老人介護ホーム安楽、親子マンション互助、農家町屋回帰などいろいろ考えられますね。

 私は、新しい遊民が誕生してきているとも考えています。
 元々、地方からの流民が大都市圏に来て住み始めました。最初、流民は小さい家に住み、やがて定住する場所を求めたとき、郊外住宅地が選択肢としてあり、郊外へ移り住んでいきました。住む場所が多様化すると同時に、流民は都市文化を育ててきました。近代日本の郊外は流民の定着装置であったのです。
 ところが近年では、単身赴任や共働き、子どもの一人暮らしなどで家族はネットワーク化、リモート化し、昔の家族の形態からはどんどん変化しています。かつて標準家庭と呼ばれたものは少なくなっています。
 そういうことを前提にした住まいや都市圏の構造はどのようなものなのだろう、と思います。今では、農山漁村も含めて人が移動しており、このような新遊民がどんどん誕生してきています。都心や郊外、農山村に限らず、彼らのライフスタイルやコミュニティを受け止める場所を繋ぎ、人を運ぶような商売が鉄道会社にはできるのではないかと思います。

 鉄道会社は信頼感で成り立っています。鉄道会社が新しいライフスタイルをどんどん牽引していってほしいです。地域の1つ1つの動きは小さくても、鉄道会社がそれらをサポートすれば、それは総合力として沿線力に繋がるんじゃないかと思っています。
 単に消費生活の視点からの沿線価値ではなく、ビジネスが生まれるとか教育活動ができるなど、情報生産力を持つものとして沿線を捉えてはどうでしょうか。

質疑

・鉄道会社の提言力

古庄
 私もJRに務めていて、このような内容の社内研修をよく受けます。私鉄と比較したときのJRの強みは何か、それを生かした事業展開を考えるなどをよくします。
 中長期の経営改革では、どのようなビジネスを展開していくべきなのかを考える必要があります。その中で私の感覚では、鉄道会社がライフスタイルを牽引するというのは難しい、と感じています。
 鉄道会社は都心と郊外を結ぶ場所に住宅をつくり、流民の受け皿を作ってきました。時代の変化によって、人口が減った時には、郊外を充実させるためにライフスタイルをサポートするような仕掛けをしてきました。そこまでしても沿線の人口は減っています。
 お話しにでた「選ばれる沿線にするべき」ということには共感します。ただ、鉄道会社が大きな物語を作る時代は既に終わっていて、これからは個々が選択する暮らしにどれだけきめ細やかに寄り添えるかが求められる時代になるのかな、と思っています。「次はこういう時代だ」と鉄道会社が提言すること自体は成り立たなくなっていると感じています。
 駅前の商業施設にどのようなテナントを入れるべきか、という話し合いもよく出ますが、各鉄道会社の沿線価値向上の戦略はどこも同じような感じです。駅前には薬局、パン屋、コンビニは必須で、それにどのようなプラスαのテーマを持たせられるか、個人のライフスタイルに寄り添える機能を付けれるか、が勝負になってくると思っています。
 上手く言語化出来ないですが、沿線力とは何かというのを、私としても具体的に変換していかなければ、と思いました。

角野
 おっしゃることはよく理解できます。
 実は、ロードサイドのライフスタイルはすごく一般的になってきているんです。ロードサイドとどう差別化するのかという議論もあります。
 買い物や外食、文化やレクリエーションのような自己実現など、なんでもかんでも駅や都心に集まるわけはないです。例えば、平日は通勤のために電車を使い都心にいきますが、休日は車を使ってロードサイドを利用している場合も考えられます。自己実現はもっと多様で選択肢が広くなるので、ロードサイドでなくても良くなります。
 それぞれのライフスタイルはそれぞれが決めているんですよ。だからこそ鉄道会社がそこに潜り込んでいってほしいです。
 特にJRは赤字路線がたくさんある中、駅周辺や敷地の中でどのようなことができるのかを考えていかないといけないです。JRの最大の資産は土地をたくさん持っていることだと思うので、電車に乗らなくても目的地になるような場所を考えてほしいです。
 JRは田舎まで支えており、大都市圏が抱える課題と違うところはあると思っています。

・鉄道会社の尖り方/郊外の尖り方

岸本
 お話を聞いていて、鉄道会社は信頼感が最大の武器だからこそ尖りづらいんじゃないかと思いました。本当に多様性を出すなら尖る必要があるが、健康や緑、農業など、みんなが納得する方向にしか突き詰められないなら、似たような開発方針になるのではないかと思いました。
 尖らせることで、例えばヒッピーのような人が集まる場所は作れると思うが、鉄道会社のイメージとしては良くないんじゃないかと思います。それはできないなって。


 南海電鉄の方に、「パーマカルチャーはどうか」と言ったら否定された経験があります。「もっと普通のファミリーが住む場所なんだ!」と。

岸本
万人受けをしないといけないってことですよね。

古庄
 大都市近郊にある街だと、街が成熟しているので、パーマカルチャー等を取り入れたりするのは相当難しいかもしれないですね。なにもない白紙の状態からだとできるかもしれないんですけど。


 過去に、大きな府営住宅を建て替えるプロジェクトに携わったことがあって。一角に雑木林があり、そこを公園などの新しい用途にできるチャンスがありました。全く使われていなくて、余白が相当あったんですよね。確かに商業集積エリアでは難しいかもしれないですね。

有賀
 能勢の方は意外と地価が高いんですよね。尖ったことをやりたい人が集まっているから、車で巡ってたら、レストランや建具を作る会社があって。レストランには何十人もの行列ができていました。そういう面白いことをやりたい人にとっては、駅地下は微妙ですよね。


駅がない所の方がいいもんね。

古庄
 そもそも鉄道は、「マスを運ぶ」っていうことですもんね。尖った人はそもそも駅のそばを選ばないですよね。

角野
 基本はオーソドックスで保守的な話なんですよ。その中にアクセントをどう詰め込むかが落としどころの探し方だと思いますね。

・「健康」というテーマ

岸本
 100年近く前でも郊外住宅地の売り文句は「健康」なんですね。永遠に変わらないテーマですね。

角野
 暮らしって、基本的に保守的なんですよ。根本は変わらず、そこに付加価値を加えることで雰囲気がごろっと変わるんですよ。

・郊外におけるプロジェクトの難しさと隣接駅との関係性

 私達が業務で関わった泉ヶ丘や泉北ニュータウン、名谷はこの資料の末端拠点駅ですね。
 オーストラリアの方で、新しいアグリカルチャーと文化が混ざったような事例があって、そのようなものを我々も業務の中で提案していったんです。ただ、地元の人達の思いはバラバラなんです。駅周辺には、まちづくりに対応できるようなガーデンショップやレストランもあるのに。
 地元の人達が協力していかないと郊外のイロを出すことは難しく、劣化コピーのような住宅が建設され、普通の店舗の消費地になってしまいます。当時は、今の権利スタイルではこれを打破するのはなかなか難しいな、と思いました。
 URや公社、南海電鉄がニュータウンの土地をまとめて持っていたため、もっとスムーズにプロジェクトが進むと思っていたんです。今は、隣駅などでも仲間を見つけながらプロジェクトを進めたらスムーズに進んだのかな、と感じています。
 電車を使う必要がある都心部では、エリアイメージを更新するために駅の価値を感じています。車や別の交通手段を利用している人のイメージを更新するためには、普通電車しか停車しない駅を対象にするのがいいのではないか、と思いました。

角野
 人は目的があれば足を運んでくれるので、隣駅へは車で行けばいいんですよ。だから「駅中心」ではなく、「駅もある暮らし」という風に捉えると、考えられることはたくさんあるかもしれませんね。
 目的性の高い機能って、健康系・医者、獣医、お稽古ごとだと思うんです。私が住んでいる近所でも、車に乗って遠くから病院に来ています。限りなくそれぞれのライフスタイルに近いですしね。
 あと、それらを支える組織も重要です。物販や飲食などを縦割りせず、同じようなテイストで地域を繋げるような物を提案できるかどうかですね。

・都心開発における行政と鉄道の関係性

新津
 都心開発においては、行政の責任も大きいんじゃないかと思っているんです。日本において大地主は、行政と鉄道会社だと思うんですが、今日はあまり行政の話が出なかったです。
 私は元々さいたま市の大宮にいたんですが、大宮は駅で発展してきた街です。そうすると、行政のスタンスもどうしても駅中心になってしまいがちなんですよ。

角野
 確かに行政の話をしていないですね。
 鉄道はいくつもの市町を貫いていきます。鉄道会社としては全ての駅に同じものを作りたくないわけです。それは行政も一緒で、駅ごとに図書館やホール、総合病院を作ることができれば、沿線のネットワークを作ることができるんですよ。
 2~3年前ごろから、JR阪和線沿線や姫路の方で実験的に行政間のネットワークを作り、沿線での役割分担をどのように図るかという取り組みを行っています。なかなかハードルが高くて、観光情報の共同発信すらもうまくできていないんですよね。
 鉄道会社と行政の連携の代表例として、横浜はうまくやっていると思います。私は「鉄道が異なる自治体を繋ぐ」ということにチャレンジしてほしいんですけどね。ハードルが高い、と言われ続けています。
 周辺との繋がりという視点では、高架下の隣地をどのように活用していくかを都市計画とセットで考えないといけないです。高架沿いには、必ず側道があると思います。そうすると「高架下の活用」と「隣地の活用」に分かれてしまい、繋がりが生まれないケースがいっぱいあります。
 京王電鉄の下北沢駅に『MIKAN』というプロジェクトがあります。たまたま京王電鉄が隣地もハンドリングできていたため、隣地を含んだ開発が実現したプロジェクトですが、界隈制を広げていくためには、行政や都市計画のサポートが必要になります。

・日本の鉄道会社の特殊性


 今日話してもらった沿線の開発モデルは海外にはあまりないのですか?

角野
 ないです。日本は、鉄道会社が不動産開発を行い、収益を上げなければならないようになっています。海外では、鉄道事業は税金ですることが当たり前になっています。日本の私鉄は非常に特殊なんですよ。


 民間で無理矢理やらなくても良いのかも知れないですね。税金で運行する方針に舵を取れば。

角野
 その通りです。その代わり、今のような精度の高い運行や安全管理はできなくなるでしょうね。既に、鉄道会社の総売上に占める不動産の割合が半分以上の会社もありますよね。


 メトロとかはどういう風にして生きていけば良いんでしょう。行政のものだったのに、急に民間のものになったから、土地もターミナルも無い状態なんですよね。

・関西大手私鉄5社の沿線力

新津
 今、一番沿線力があるのはどこだと考えますか?

角野
 関西では、阪神電鉄か京阪電鉄かと思います。沿線の特徴が明解で、沿線距離が長くないので、一つの色でパッとコンセプトを打ち出しやすい気がします。
 阪神電鉄は駅間距離が短すぎて、スピードを出せないところが致命的ですね。ただ、運転能力はすごいと思います。急加速・急停車が多く、なおかつ甲子園への顧客輸送時のオペレーションやダイヤの調整、大量の顧客を上手に流す仕組みなど目を見張るものがあります。

・関西大手私鉄5社の展望と資産活用方法

新津
 関西の大手私鉄5社が統廃合していく可能性はありますか?
 人口減少のため、どうしても事業は縮小していく方向です。どのように共存していくのでしょうか。

角野
 阪神間、京阪間で路線が並行している場所は、統廃合されずそのままの可能性が高いです。関西の今後の人口予測では、国土幹線沿いは人口減少率が低いです。そうすると、逆に路線が並行しているから魅力があるという感じなんです。
 縮小が予想されるのは、近鉄やJRのように地方に赤字路線を持つ鉄道会社です。「鉄道を廃止し、バスに変更しよう」という話がいつ出てきても不思議じゃないです。どうなった場合、鉄道の跡地や試算をどのように活用するかを考えざるを得なくなってきています。

新津
 そのような場所は、お金を生み出す用途は入れにくいですよね。

有賀
 自然に返すしかないよ。

新津
 そうですね。公園にするとかでしょうか。

角野
 鉄道が一番気の毒なのは、電車が走っていない時間が長くなって、線路の稼働率が極めて低くなることです。電車が通ってない間の利用用途を考える必要がありますね。

野﨑
 私は、以前まで近鉄不動産に務めていました。お話の中で、近鉄グループの方針は地味だということは心に刺さります。近鉄は、人口減少が進むところに多く沿線を持っています。コンパクトシティが進む中で、近鉄グループはどのような方針を打ち立てるのが良いのだろうか、と考えていました。

角野
 伊勢志摩は近鉄にとって宝物ですよ。あの宝物をもっと上手に扱うことができたらいいかもしれないです。
 スペイン村の敷地にまだ何も建っていない構想時の頃、少しお手伝いをしたことがあります。リゾート法が施行されたのち、それに則った第1号の物件としてプロジェクトを進めていました。当時の近鉄の担当の方は、「戦前から保有しているため大事にしている」と話していました。伊勢神宮が沿線にあり、伊勢志摩サミットが開催される場所です。海外の顧客を誘致できることは圧倒的に有利です。お召し列車を持っているのは近鉄ぐらいじゃないですか?
 それらをちゃんとプロデュースするべきです。沿線距離が長いのでいろんな顔を持っていると思いますから。
 
野﨑
 その魅力が一般の方には伝わってないっていうのが課題ですね。

角野
 だから地味なんです。伝え方が下手なんですよ。

・乗車中の時間の有効活用

有賀
 能勢などの郊外でも、いろんな活動をしている面白い人達がいるじゃないですか。彼らって能勢電は使わず、車で都心と行き来していると思うんです。彼らが電車を使えばすごく面白い路線になると思うんですけど、そういう役割も必要になってくるんでしょうか。

角野
 やはり、移動の付加価値をどうつけられるかが重要になってきますよね。今だと運転しながらいろんなことができるから、車の方が圧倒的に付加価値がつくんですよね。

有賀
 長門に住んでいると、車で1時間とか当たり前に移動しなきゃいけないんです。電車だと本も読めるし、仕事もできる。車はずっと運転してなきゃいけないのがすごく勿体ないです。確かに電車に付加価値が付けられたら、電車を使うように変わるんじゃないかと思っています。
 最近、電車を使わない場所に移住する人が周りで増えているので、彼らが鉄道を使うとどう変わるのかな、と考えたりします。

角野
 郊外に住んでいる人の年齢や行動圏が都心とどう違うのかを過去に調べました。例えば学園前は坂が急なので、車で駅までやってくる人が多いです。ついでに買い物をして帰っていくような様子も見られるので、私は車に反対ではないんですよ。車をいかに上手に使ってもらうか、ということが重要です。だから鉄道会社も車と敵対するのではなく、車をどう扱うかというのが、すごく大きなテーマだと感じています。

・鉄道から拡張する取り組みについて

有賀
 電車にも自転車を乗せることができたら良いですよね。

角野
 同感です。JRには考えてほしいです。

古庄
 一応、エキリンクというレンタサイクル事業をやっています。乗せられる車両とそうでない車両がありますが。

角野
 そういう、鉄道に縛られない取り組みをどんどん拡充していってほしいですね。

一同
それでは時間になりましたので、このあたりで終わりましょう。ありがとうございました。

感想

 角野さんが「鉄道会社は、新しい取り組みをするときに地元住民にきちんと共感してもらうことが大事」と仰っていたことが印象的です。
 都心で働く人を支えるために発達してきた郊外が、いつしか金を儲けるための装置としての一面を持つようになり、時代の潮流や都市圏の縮退傾向で次第に都心からおいていかれる状況ですが、あくまでも沿線開発の原点は、まちづくりなのだと実感することができました。
 今後、鉄道に乗るときは風景を楽しむとともに、それぞれの私鉄の開発の違いや都心~郊外への移ろいなどに意識を傾けると、新しい発見がありそうです!
 角野さん、レクチャーありがとうございました!

(レポート記録:野﨑)

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