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【HBPメンバーインタビュー】第3回 園田聡(2015/12/25公開)

HBPメンバー紹介のインタビュー企画、第3弾!
今回は6月から新しくメンバーとなった園田聡(さとし)さんです。

ひさお、ゆーり、しおりでインタビューし、ゆーりが記事にまとめました。
期待の新メンバーってどんな人?
これまでの歩みと、素顔が垣間見えるインタビューです。

埼玉県・所沢生まれ。はちゃめちゃなおじいちゃんと、東京都職員の両親


1984年5月15日生まれ、園田聡です。生まれは埼玉の所沢。高校くらいまではずっと所沢にいました。今は月の半分は東京、半分は大阪で仕事をしています。

家族は父と母と2コ下の妹の4人家族。父は早期退職し、今は数学オリンピックの財団職員として国内外の大会の事務局をしてますが、父も母も妹も東京都庁の職員です。

父と母は職場の登山部で出会ったって言ってたかな?詳しくは良く知らないんだけど。母さんは長野出身、父さんは生まれは熊本だけど幼少期から練馬かな。

自分から見ると、ことなかれ主義の父親と、感情的な母親って感じ(笑)。長男だから、かわいがられて育った。母は今でも過保護だなぁと思う。毎週帰ってるのに、次はいつ帰ってくるの?って聞いてくるかな。家族の中で一番俺がエラそうかも。リビングでソファに座ってると、父親と母親が全部準備してくれる…みたいな。

あと、隅田区で町工場をやってた母方のおじいちゃんがいて。工場はクリアファイルとかプラスチック製品の加工とプリントをしている工場だった。小学校の時は千葉にあるじいちゃんの畑のショベルカーが遊び道具だったんで、俺。中学出るまでショベルカーに免許がいるって知らなかった。じいちゃんが運転していいぞっていうから、じいちゃん家の敷地で、ゴミを埋める穴を掘って、ゴミ入れて、土掛けて、上からならして、みたいなのをやってた。週1回くらいは、じいちゃんとこに行ってたイメージがあるなぁ。中学時代は工場にアルバイトにいってたし。

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子どもの頃、ショベルカーで遊んだおじいちゃんの畑。うしろの家はおじいちゃんのセルフビルド

隅田に来る前、じいちゃんは長野の野辺山っていう所にいて、家族で東京に出てきたみたい。昔は水を掘って管をつないで水道をひくっていう仕事を全国でしてたらしい。今じいちゃんが住んでいる千葉の家も、自分で土地を買って水源を探して山を削って湧水をひいて、コンクリートの水がめを作って、そこから水を取ってるんです。それも全部自分でやってて。家ごとの簡易水道を引く仕事って感じかな。じいちゃんは、はちゃめちゃだけど面白い人。もう工場はやってないけど、今も元気です。

子どもの頃はずっと団地に住んでた。2回引っ越したけど、半径500メートル以内で全部団地の一室。小学校の時は放課後にサッカーとか野球とかしてたかな。あんまりみんなで仲良くやろうよ、みたいなタイプじゃなかったけど、中心のグループにはいる…みたいな。円があって中心が0、円周が5だとしたら、常に3くらいのところにいるという、うまいポジショニング(笑)リーダーには割と好かれて、「あいつはいつもつれねぇなぁ」とか言われながらも毎回声を掛けてくれる。でも自分が行きたくない時は行かない、みたいな。

中学は地元の中学へ。サッカー部に入った。野球・バスケ・サッカーで迷ったけど、野球部は坊主だから嫌で、バスケは朝練あるから嫌で、じゃあサッカー部かな…って。消去法です。で、ルールがあんまりわかんないから、とりあえずキーパーやりますってことで。でも全然やる気なくて、もう一人いたキーパーとジャンケンして、負けた方が試合に出てるような状況だった。

中学くらいまでの俺の性格は父親に似てことなかれ主義。波風の立たないべた凪みたいな人生が一番だと思って生きてきたからなぁ。高校に行ってちょっと変わったけど。

自由な校風の高校で、自分の意思を持つように
高校受験は私立を受けて失敗したんですよ。合格発表を見に行ったら、自分の前5人、うしろ5人の番号はあるのに自分の番号だけなくて、それでもう嫌だ、ってなって大学は絶対受験しないってその時に決めました。結局高校は、県立の、学区で2番目くらいの共学の高校に行った。学区トップの県立高校は男子校だったけど、男子校に行くのが嫌すぎて共学にしました。レベルが少し下がったから、入学式では新入生代表で挨拶しました。

この高校が超自由なところで、私服で校則もなくて、クラスの3分の2は髪の色がカラフル。クラスの成績トップの人とかは、ドレッドに舌ピアス、スケボー通学みたいな人だったし、そういうのを見て、楽しくやった方が得だな、と思うようになって、自分の意思を持つようになったかな。

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高校の体育祭。左下が園田さん。

高校でもサッカー部に入部したけど、1年生の夏に引退しました。土日に毎回試合が入って、好きな釣りが全然できなかったんで(笑) さっき言ってたじいちゃんが、子どもの頃、千葉の富津っていう所に、格好良く言えば、今でいうセルフビルドで建てた家を持っていて、週末にそこによく一緒に行って、防波堤で遊んだりしてた。で、中学の時のサッカー部の同級生にバスフィッシングを教えてもらって、そこから釣りにはまりました。

サッカー部を辞めてから、今しかできないことをしようと急に思って、所沢から山中湖まで自転車で行ったこともある。2月の雨の日、夜12時に出発して。一人で。その日ドラマで、織田裕二を好きになった仙台の女子中学生が、チャリンコで東京に出てくる、というのやってて。これなら俺も出来るし、今しかできない!と思って、ドラマが終わってすぐ、リュックにコッペパンとライフガードと地図だけ詰めて出発。出て20キロくらいで心折れたけどね。ママチャリみたいな普通のチャリだったし。雨降ってずぶ濡れだけど店には入れないし、コンビニにも入れないから、国道沿いの電話ボックスの中でコッペパンとライフガード食べて。山中湖に着いたら、写真1枚だけ取って速攻で帰ったけどね。12時に出て、現地についたのは朝の8時か9時くらいだったかな。


建築・都市デザインに関わり始めて、はや10何年


大学では建築とか都市デザインをやりたいというのがあった。
なんでかっていうと…ネタとしてはマーマレードボーイ(★1)に影響されて。悠君は建築の勉強のために光希を置いて京都に行くし、悠君のお父さんは建築家っていう設定だから。

真面目な方の理由は(笑)、小学校の時に父親が都庁の食堂に連れて行ってくれて、そこで初めて都庁をみて、建物とその周辺の新宿の再開発のまちを「すげぇ」って思って。建築をやりたいっていうのがずっとどこかにあった。

で、高校受験の失敗で、大学受験はしないって決めてたから、高校にはいったら指定校推薦をとれるように定期テストとかをめっちゃ頑張った。あれって3年生の1学期までの成績が反映されるから、そこまで頑張ってあとは遊ぶっていう。だいぶ計画的でしょ。

指定校推薦の中で選べる大学の中に、工学院大学の建築都市デザイン学科っていうのがあった。学科名に建築と都市デザインって入っているのは工学院大学しかなくて。そこにしようって決めて。

大学に入って、学部生の頃にやってたのは本当に基本的なこと。その中でもやっぱり都市デザインの授業が1番楽しかった。1年生の夏に課外実習があって、今もお世話になっている倉田先生が横浜のまちを案内してくれた。横浜のまちはどこを通っても景観や調和がデザインされている、ということが分かって面白かったな。あと同じ倉田先生のランドスケープの授業も面白かったから、3年生になってから先生の研究室に入った。

建築を専門でやり始めてからは迷いがなかった。どこが自分に向いてたのかなぁと思うけど、どこかのまちに行って、かっこいいカフェがあるとか、素敵な美術館があるとか、休みの日に自分の好きな事をやってても、それもレポートになる。ある意味では、自分的には遊んでいるつもりでも、全部フィードバックできる、みたいなところが良かったのかも。

今思えば、大学1年生の時に決めたことのまま、今まで10何年やってきてる。長いよなぁ。

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ドクター含め、10年間通った大学の研究室フロアからの眺め


1年間の社会人生活


大学3年の時にみんな就職活動とか始める時期になって、このまま社会に出ても技術なんてあってないようなものだし、使えないなぁと思って大学院にいくことを決めた。

修士をとってから卒業して、就職したけど、あまりなにも考えてなかった。早く社会に出たくて、行くなら一番デカいとこ、と思ってデベロッパーを一番上から受けていった。当時は結局、川上に行かないとなにも変えられない、と思い込んでたんですよ。三井、三菱、野村、住友、安田、、、全部上から受けて全部落ちて、最後に受けた商業企画とインテリアデザインの会社に就職した。商業ビルのデザインの企画とかテナントリーシング、テナントデザインとかやった。実作でゴルフ店のインテリアデザインをやったりね。あとは社長について、中国の開発企画とか。

その会社はちょうど1年で退職した。退職の理由はいくつかあるけど、業界的に厳しい時で、会社として仕事がなくて将来を感じられなかったことと、憧れの先輩が見つけられなかったこと、あとは自分のスタンスと合ってなかったからかなぁ…。

入って半年くらいで、とりあえず今年度いっぱいで辞めよう、とは思ってた。生活がむちゃくちゃだったし。平日は夜中2時に帰って6時には家を出る、っていう生活をしてて。そうすると、週末にすごくお金を使う(笑)飲みに行けば全部おごってたし、待ち合わせで時間が10分あいたら、ふらっと百貨店に入って4-5万の時計を買ったりとか。単純にお金を使うことでストレス発散してたんだろうなぁ。服とか靴は好きだったけど学生時代はお金がなかったからな。

8月に、会社を辞めて大学院に戻るって決意してからは、それもパタッとやめた。大学院に行くためのお金を貯めはじめた。もう一度ドクターに戻るというのを先生に相談した。


「自分しか出来ない」プレイスメイキングの研究へ


ドクターに戻った時は、将来の道としては教授になりたいと思ってた。分野は商業系のまちづくりがやりたいと思ってて。元々卒論で中心市街地活性化の組織論、みたいなことをやってたので、その延長でって。そうしたら先生から、それをやってもあんまりだから、それならプレイスメイキングというのがある、興味がある分野とも近いという風に教えてもらって、それを学び始めた。

教授になりたいなと思ったのは、研究をしたいというのはもちろん、教育に興味があったというのはある。でも義務教育みたいに、モチベーションが向いてない人に何かを教えるというのには興味がなくて、それをやりたいです、という人に教えるのがいいなって。

あと、最初に就職した会社で良かったのは「名指しで仕事をもらえる人になりなさい」という風に教えられたこと。それはすごいそうだなぁと思ってて。研究者の分野で当時プレイスメイキングを研究している人は少なかったから、これをやったら、「自分しか出来ない」になるなぁと思って。でもその専門で食っていけるかは分からないから、将来的には専門分野をビジネスとして確立したいと思ってた。

今はその考えもだんだん変わってきていて、実践でやることのウェイトの方が大きくなってきてる。やっぱりアドバイザー的にやっているだけでは自分にノウハウが溜まっていかないというのがあって。しばらくは現場をみて実践を積んでいきたいなと思ってる。

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ドクター時代、日中大学の合同プロジェクトで訪れた中国内陸部の古い集落


専門性×関係性の中から、何かを生み出したい


博士を取ったあと、先生の事務所で働いていいよ、って言われてたけど、将来どうしようかなぁと思ってて。

そんな時に山下裕子さん(★2)と出会った。多分何かの講演会で知り合って、東京に来るときに会いましょうということになった。東京で会った時、喫茶店で5時間くらい話したかなぁ。その時に豊田市のプレイスメイキングの話を聞いて、豊田市に一度一緒に行くことになった。現地の人たちにプレイスメイキングの話をして、研修会とかに呼んでもらった。そのつながりで泉さんやしおりさんとも出会った。

泉さんの第一印象は「大きいひとだな」と(笑)

最初はそんなにがっつり話しなかったけど、何度か会った時にゆっくり話をする機会があった。仕事の話とかを聞くと、こういう風に仕事をする人がいるんだなぁ、と思った。

今年に入って、豊田の仕事を一緒にするようになって(★3)、6月くらいに大阪でもハートビートと一緒に仕事をしないか、という話があった。ちょうど大阪に来た時に、朝の8時くらいに事務所に呼び出されて(笑)そういう話をしてもらったんですよね。その時は急な話だったし、ちょっと考えます、っていって終わった。そしたらそれから1週間するかしないかくらいで、大阪で住む所、ここどうですかっていう物件の写メが送られてきて、そんな本気なのか!と思って。あわてて倉田先生に相談して、ひとまず東京-大阪の2拠点でやっていくことになった。

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豊田の業務での出会いをきっかけに大阪へ。

ハートビートプランの印象は…どうだろう。
ゆーりさんと初めて豊田であった日に、大阪に一緒に帰って来たんだけど、電車の中で、俺買い物が好きで物欲が強いんですよねー、みたいな話をした。そのあと事務所に行ったら、初対面の尚生さんに「園田さん、強欲らしいですね」っていきなり言われて、あっ、ツーツーだなこの会社って(笑)
初対面でそんなこと言われたの初めてだからびっくりした。でもアットホーム感は超感じたな。

アットホームでいいな、と思う反面、前の会社が「おれたちは家族みたいなもんだから」っていう感じであまり馴染めなかったから、次はプライベートはプライベート、仕事は仕事、で割り切って働こうと思ってて。でも来てみたら、そんな感じだったからちょっとヤバいなとは思った。みんな名前で呼び合ってるし(笑)

でも実際やってみると、本当にそういう公私混同みたいなスタンスが浸透してるところでは、自分も大丈夫なんだな、と思った。逆に言葉で「おれたち家族みたいなもんだろ」って言ってるのなんて聞いたことないし。

ハートビートプランは、自由にやらせてもらえる感じと、尊重されてる感じが働きやすいかなぁと思う。

みんな泉さんの部下とか社員ていう感じでもないし、チーム感があっていいなと思う。それぞれの得意分野も違うし、お前が言うならやってみよう、というスタンスがある。

それでいうと、自分はプレイスメイキングという専門をどこかの地域に関わって形にするというのを作りたいな。豊田は最初から関わっているからやっていけそうだし、大阪でも泉さんや尚生さんのこれまでの繋がりを教えてもらいつつ、住む場所、仕事する場所として地域のことを知っていきたい。できれば年明けから大阪の比重を大きくしていって、4月からはがっつり大阪でやっていく予定。プレイスメイキングの仕事はもちろん、それ以外の仕事もどんどんやって幅を広げていきたいな。専門のプレイスメイキングについては自分から仕掛けていけるけど、それ以外のことはなかなか機会がないと取り組めないから。

あとは、泉さんとかと対等、というかパートナーみたいな形でやっていきたいな。こんな仕事がやりたいというよりは、どういうスタンスと関係性でやっていくかというのを大事にしたい。だから最終的にやるのは喫茶店とかでも別にいいんです。
今のメンバーとか関わる人との関係性の中で、何かが生まれたら面白そうだなと思う。

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エネルギーの源は、埼玉の誇り「浦和レッズ」の勝利です!

★1:1990年代半ばの少女漫画。両親の再婚で同居することになった2人の高校生・光希と悠の恋愛模様が描かれている。
★2:全国まちなか広場研究会/NPO 法人GP ネットワーク。07 年富山市まちなか賑わい広場グランドプラザ運営事務所。10 年(株)まちづくりとやまグランドプラザ担当。現在、NPO 法人GPネットワーク理事、(株)ハイマート久留米にてひと・ネットワーククリエイター。著書に「にぎわいの場 富山グランドプラザ: 稼働率100%の公共空間のつくり方」(学芸出版社)
★3:あそべるとよたプロジェクト


★HBPメンバーインタビュー

【HBPメンバーインタビュー】第1回 山本尚生
【HBPメンバーインタビュー】第2回 岸本しおり
【HBPメンバーインタビュー】第4回 山田友梨
【HBPメンバーインタビュー】第5回 有賀敬直

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