手が見る夢

たしかに自分は環のなかに入っている。数人で丸いテーブルを囲んでいる。自分に向けられた言葉はかろうじてわかるものもあれば、わからないものもある。ひとたび会話の波が途切れて、違う人同士で会話が始まると、まるで追いつけなくなる。

なつかしいな、と思った。あの頃と同じだ。フランス語を始めて間もない頃、留学してすぐの頃、会話に追いつけなくて、惨めに取り残されて、なにもわからない、ただ手加減をしてくれていることだけはわかるあの感じ。でもそれが不思議と少し楽しかったりする、あの感じ。

今日、なんの気なしに飛び込んだ場所で、聞こえない人も聞こえる人もみんな手話で話していて、自然と口の代わりに手が動いた。ほとんど覚悟もできていないまま、そのまま成り行きで二時間ほど、初対面の人たちと手話で会話をした。
といっても、何度も聞き返したり、指文字に逃げたり、とにかく拙い代物で、かろうじて会話が成り立っていたように見えたとしたらそれは辛抱強く相手をしてくれたその場にいた人たちのおかげだ。

訳あって今は手話を勉強しているが、今までろう者の知り合いが身近にいたわけではない。ろう者が大多数を占める空間に長時間いたこと自体、今日がはじめてだった。

気づいたことがいくつもある。

手話で話していると、相手と自然に目が合う。「見て」話す言語だから当然かもしれないが、見るのは手というより目だ。話の内容はわからなかったりするのに、不思議と、声を使って話すときより通じ合っているような感覚を抱く。それだけ目を合わせる行為が持つ意味は大きい。

その場には僕以外にも聞こえる人、つまり聴者がいた。もちろん僕とは比べものにならないほど手話も上手く、楽し気に会話をしていた。僕にはまだろう者の手話と聴者の手話を見分けられるほどのスキルはないけれど、ひとつ決定的な違いがあった。それは「笑い方」だ。聴者の笑い声にはグラデーションがある。クレッシェンドもデクレッシェンドも両方あるが、いずれにしても急な音量のアップダウンがないように制御されている。聴者はみんな同じように笑うんだな、今日はじめて気がついた。

日本語以外の言語(僕の場合フランス語だが)を何時間も喋ったあとは、頭のなかに煙のようなものが充満している。それは脳内を駆け巡った言葉たちの幻影のようでもあり、違う部位を長時間使ったことによる疲労の澱のようでもある。
今日は少し違った。手話で二時間話したあとの脳は、ただ沈黙を求めていた。街の音、電車の音、人々の声、そして音楽までもが煩わしく、音に溢れたいつもの世界がうるさく感じた。

電車に揺られる数十分のあいだに僕の身体は日常へと戻っていった。人と会い、いつものように声で話す。意図せず手が少し動く。簡単な身ぶり、ジェスチャーと呼ばれるようななにか。でも、その手が記憶している。さっきまで口の代わりに喋っていたこと、意味を宿していたことを。それを忘れたくない、と夢うつつの手が言っているような気がする。

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