時間の補助輪


「私の誕生日まで1ヶ月だよ」
彼はスマートフォンのロック画面で今日の日付を確認して、大きく目を見開いた。
「ほんとだ」
「忘れてた?」
「忘れてないよ」
目を泳がせながら、ビールジョッキに残った最後の2センチ、ぬるくなったビールを飲み込んで、彼はなんとか気を紛らわせているようだった。
「何も考えてないなら、海外でもいく?マレーシアとか、」
冗談混じりに言ったはずなのに、彼は微笑も浮かべずに無理だよ、と一言つぶやいた。私の目を見ているはずなのに、そこに私は映っていないようだった。

仕事で、忙しない毎日に追われる彼は、時間の速度が私とはまるで違った。彼にとっての1日は、私にとっての10日間くらい。私がやっと1ヶ月を乗り切ったと思ったら、彼は当分先の未来を、私の方を振り返ることも忘れて、ただひたすらに歩いている。待ってよ、と声をかけても、追いつこうと走っても、ただただ私は彼に置いて行かれている。

 もちろん、これは私に問題があると思ってる。就職しなかったから、(実際のところはできなかった、というのは言い訳かもしれないが)毎日が本当に退屈で、1日が終わるのも、気が遠くなるほど遅い。大学生から続けているカフェの仕事も、もう7年目。アルバイトではもう昇格できない立場になってしまって、とんでもなく仕事が板についている。そんな、こなすだけの毎日では、それはそれは1日が長いはずだろう。

でも彼は、しっかり就職して、毎日覚えることやこなすことだらけ。気がついたら、明日がそこまできていて、もう寝なきゃ、もう起きなきゃ、そういうプレッシャーと闘いながら、1週間を過ごしている。
そんなわけだから、全く異なる時間速度になることも重々理解しているし、だからこそ彼にとっての私たちの”4年”なんていう月日はあっという間だった、ということも勿論よく分かっています。自分が悪いことをぼんやり飲み込めはするけど、やっぱり私は怖かった。

彼の時間速度が早くても、私の時間速度が遅くても、同じように人間は歳をとる。
このまま、何も言わず、ずっと付き合っていて、私が30歳手前になるとき、「やっぱり結婚をできない」と告げられたら?私に残るのは、非正規雇用と三十路だ。そんなのって、どうでしょう、悲惨すぎませんか。

「ねえ、結婚も忘れてる?」
本当はそうやって尋ねたかった。

二人で暮らす家を探そうと、何度も話は出たのに、それ以上は進展しない。彼にとってはついさっきの出来事。でも私にとっては、半年も前。

私はなんて声をかけたらよかったでしょう。
時間の補助輪が売っていたら、何かが変わったんでしょうか。

「幸せになってね、」

本当の、最後の言葉は、何が良かったでしょう。

「置いて行かないで欲しかった、ただそれだけだったの」

早く結婚したかった理由は、未来の惨めな私の為じゃなかったと、伝えられたら良かったのでしょうか。

「今、目を見て欲しかった。」

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