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江華島事件・歴史探究3

 江華島事件は韓国では雲揚号事件といいます。この雲揚号が江華島で挑発・攻撃し、それが結果的に日朝修好条規を結んで朝鮮の「開国」になった事件です。

問 雲揚号の艦長・井上良馨の発表文とその前に書いた第一報告書とはなぜちがう内容になったのか?

1 二つの文書の提示
 (1)教科書・一般歴史書では、江華島事件は、井上良馨が10月に書き直した発表文が基になって、 「朝鮮から清国にかけての航路研究の任にあった日本の軍艦雲揚の艦長は、飲料水を求めるとして通告なしに艦のボートで江華島砲台に上陸しようとした。朝鮮側はこのボートを砲撃したので艦長は帰艦後、同砲台を砲撃し、ついで近くの島に上陸して永宗城を占領した」と説明されます(詳説日本史──山川)。
 (2) 別の文書は、初め9月29日に書いた報告書を、10月8日に改訂したもので、改訂した文書(ここでは発表文と呼んでおきます)その要点は、
 ① 朝鮮から清国(中国)牛荘港までの航路研究中であったが、清水の補充の必要から、江華島付近に寄航しようとした。
 ② 9月20日、ボートに乗り、江華島の第三砲台付近に上陸して清水を求めようと航行すると突然、銃砲が放たれた。
 ③ ボートから合図で雲揚号に伝え、これに応じて雲揚号が、すでに朝鮮に釜山草梁倭館より通知してあった国旗をマストに掲げて、艦載砲で答発した。
 ④ 第一砲台に航進し、砲撃しつつ上陸し、江華島の南にある永宗島を占領して大砲などを捕獲し、艦に積み込んだ上、城内を放火して焼いた。
 ⑤ いろいろ捜索して、一孤島に上陸して清水を得て長崎に帰った。

 書き直した発表文を、10月17日に寺島宗則・外務卿から、墺・露・仏・伊・英に駐在する公使あてに発信されました。駐日イギリス公使パークス(Hary Parks)にも伝えました。
 なぜ、このような書きかえをしたのでしょうか?

(3)第一報告書の内容
 東大教授・鈴木淳は、井上良馨が9月に帰国してからすぐ書いた文書(第一報告書)を発見しました(2002年『史学雑誌』111巻12号)。そこには発表文とは違うことが書いてありました。
 この事件が挑発ではない、つまり計画的なものではない、とするネットの論説があります。
明治の征韓論 p.63〜p.103
 第4章 江華島事件と政策的征韓
 ▲「政府首脳部の計画や訓令によるものではなく、一部の海軍と陸軍及び外務省の第一線外交官が中心となって起した事件であったと思われる。」と書いている。この「一部」が元勲といわれる政府中枢の政治家も入っていて、「一部」の軍人も国家を構成するひとびとなので、この指摘はあたらない。

② 亀掛川博正「江華島事件と「日本側挑発説」批判」(軍事史学会『軍事史学』三八巻一号 通号 一四九号 二〇〇二年六月 四七〜六一ページ
)→https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I6200785
 ▲これは井上良馨の発表文を信用し、最初の一発目を撃った朝鮮側に責任をもたせ、その後の日本政府の苦慮を見て、挑発ではない、と結論し、朝鮮側の不用意な発砲に事件の原因があるとしている。この後で結ばれる条約は、日朝修好条規と呼ばず、日修好条規と蔑視の語句を使っている。しかし鈴木淳の論文が発表されてからは沈黙している。「一発目」でなく翌日の日本側からの発砲がこの事件を拡大したことを知らなかった。

 ③ この他、ネットでは、「明治開化期の日本と朝鮮(3)」
http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi014.html
 ▲偶発と強調しているが、「平和」を強調する政治家の甘い見通しを、事件を偶発にもっていくため多用した詭弁集。戦闘期間が1日で(日付けを書かない航海日誌はありえない)、挑発史料はないこと、書き直しを命じられたこと等を軽く見ている。

 ④YouTubeでは、「教科書で嘘教えてない?江華島事件は日本軍の挑発によって引き起こされたという「定説」に疑問を呈したい」
https://www.youtube.com/watch?v=EvAEli3hPcM
 ▲①〜③のひとたちと同じ偶発説。

違うこととは、
 ①改訂報告書(発表文)には、すべてが20日の一日で起こったことのように書いてあるが、実は、6月20日に長崎を出港してから29日に帰港するまで10日間、戦闘だけに限れば、20日に砲撃しあってから25日に撤退するまで3日間かかっていることが記されていた。江華島をまず攻撃し、さらに翌日永宗島を攻撃して、戦闘で35人を殺し、捕虜も得、大砲他の多くの物品を略奪したことを1日で成し遂げることができることも、従来から史料として怪しまれていた。

 ② 第一報告書には、水の補給を目的としてボートで接近したということは書かれていない。書き直した発表文で初めて書いている。発表文では、「蓄水を胸算するに牛荘着港の日まで艦裏に給与し難き故……良水を蓄積せんと……探水或は請水せしむる……上陸良水を請求……飲水愈闕乏」と5回も言及している。

 ③ 国旗をかかげたのは、翌日なのに、発表文では初めの日からかかげたことに変えられている。しかも5流(枚)もかかげた、と。
 10月の報告書は国旗のことを執拗に記している→「前軍艦彼の海岸に行くや彼は我国旗を知らざるの模様ありし事もありたり。依てこの艦の此に入るや常に掲る国旗の外に二流の国旗を増し三檣に三流の旗を掲げて示せり。」←旗や幟を数える単位は、今では「枚」を使っていますが、正式には「流」(古い字体は「旒」)という単位で数えます。
 これは国旗をかかげたということで、朝鮮側のミスを強調したかったし、欧米に対して日本の正統性を強調する意図。

 ④ 初めは朝鮮側が発砲し、それに応戦した、で終わっておらず、第一報告書では、2日目に、準備を整えたうえで雲揚号のほうから発砲して、後で朝鮮側が応戦した、となっていて、戦闘を拡大したのは日本側であるのに、あくまで朝鮮側の発砲に応戦したことだけに発表文は変えられている。
 原文は「直ニ巨離試シノ為メ四拾斤ヲ発スレハ八分時ヲ後レテ彼ヨリモ亦発砲ス)(四拾斤は、重さ24kg)」と。つまり、初日は大きな交戦にならなかったのに、日本側の攻撃が翌日であることが判らないように書き直している

 ⑤ 朝鮮蔑視の表現が、発表文では少なくなっている。第一報告書では「失礼ノ国……此国ハ数百年来不開化ノ習俗ニシテ、実頑愚ナリ……。逃走スルコト恰モ豚児ノ群リ曠野ヲ飢走ス」

 ⑥ 第一報告書では、侵略の意図もハッキリ出しているが、発表文では控えている。第一報告書では「将ニ此国ヲ以テ我有トナス時ハ益々国礎ヲ強クシ世界二飛雄スルノ楷弟ナリ。……是非早々御出兵ナラン事ヲ希望ス。」
 このような改訂の必要性についての証言は、鈴木論文では、「9日の午前、大臣参議たちは事件を国際社会に対してどう説明するかというところにかなりの神経を使わざるを得なかったことが推測できる。
 対朝鮮交渉にあたっていた外務少丞森山茂は事件を長崎で知ったが、釜山に帰任後の10月4日、飲料水の調達を目的とした接近と、国旗に対する砲撃の二点を論点にすべき事を外務卿に上申している。」

(4) 二つの文書の違い・まとめ
第一報告書(9月29日)   発表文(10月8日)
衝突は4日間        1日
目的は測量        目的は水補給
国旗は2日目にかかげた   初めからかかげた、5枚(流)
1日に朝鮮側から発砲    朝鮮側からの発砲
2日目は日本側から発砲      (日本側から発砲は不記)
朝鮮蔑視表現が多い    (朝鮮蔑視表現少ない) 

第一報告書と発表文はこんなに違います。なぜ、これだけの違いがあると思いますか?

(5)事件の概要
 まず事件を時間順に追ってみます。どちらの文書も信用に疑問がつくものの、第一報告書の方が帰港直後なので、真実性は発表文より高いと判断して事件を追ってみます。発表文は修正を迫られて書き直したものなので、信用できないのは言うまでもない。

1875年 6月14
 事件が起きる2ヶ月前、1875年6月の記録です。
 雲揚号と第二丁卯号(だいにていぼう)が釜山に入港し、釜山港の訓導(役人)・玄昔運(げんせきうん)以下18人の朝鮮人を艦内に招き西洋式軍艦の内部を観覧させます。艦砲の発射を始めるや、朝鮮人は恐怖の余り床上に這いつくばって立つこともできず、しきりに艦長の袂を引いて発射演習の中止を請うたそうです。釜山の森山茂・外務官僚は「もしいま我が軍艦を派遣し釜山において海軍の練習をもってする武威を示すなら、これ(朝鮮)を屈服させるのは呆気(あっけ)なくできます」と日本に報告します。

 地図解説 
 長崎・佐世保港から釜山に寄り、そこから江華島に向かっていきます。江華島事件の草芝鎮砲台に近づき、警告の発砲をされると、雲揚号が発砲仕返しましたが、とくに互いに何の被害もありませんでした。翌日、準備した雲揚号は江華島の草芝鎮砲台に発砲し始めます。ここで激戦になります。翌日、江華島の南の永宗島に砲撃しながら上陸して35人殺し、捕虜も捕まえ、家屋を焼き払い、戦利品を得て長崎に帰ります。

1875年 9月20日
 午前8時
 月尾島沿いに投錨。
 午後1時
 北上してボートを下ろし、江華島に接近
 午後4時
 第三砲台前(草芝鎮)を通過しようとしたところ、砲台から砲撃を受けた。弾道は短く雲揚号の前100メートル先で落下して被害なし。持参の小銃にて応戦。
 午後9時
 全員無事にて本艦(雲揚号)に帰る。

1875年 9月21日
 午前10時
 第三砲台前に至る→照準合わせて雲揚号から試射、八分後に同砲台(朝鮮)からも応砲あり。雲揚の艦砲の射程距離は長く、炸裂して、草芝鎮の土煙をあげた(その跡は今も残っている)。約2時間の砲撃戦、 
 午後7時 鷹島の南に投錨。

1875年 9月22日
 午前7時
 永宗城の第一砲台を砲撃、応砲なし。
 上陸後8分間の激戦の後、占拠。放火。
 朝鮮守備兵は逃げる。死者35名、捕虜16名。
 (日本側は負傷2名、後に1名死亡)
 大砲ほか戦利品を奪い、午後10時、雲揚号に帰艦。

1875年 9月23日
 午前11時 積み残しの大砲を積み込み、小島前に投錨。
1875年 9月24日
 午前10時 小島にて呑水(とんすい)を積み込み、抜錨。 
1875年 9月28日
 長崎に帰港。

問いの「発表文とその前に書いた第一報告書とはなぜちがう内容になったのか」の答は
 (a)発表文は、外交上の説明文書として、朝鮮側の不当性と日本側の正当性を強調したかった。つまり、違法性や矛盾が指摘されないことを意図して書き直したのです。
 (b)井上は、朝鮮の防備の弱さを露呈させるためにほぼ一方的に武力を行使したが、責任は朝鮮側に押し付けたかった。

(7) 偶発的か計画的かの議論があります。
ネット・YouTubeでは「偶発的」な事件との論説・サイトが多くあります。その根拠にしているのが、
 「偶発的」の根拠は、
 ① 朝鮮側が先に攻撃してきた「暴挙」なので、これに対応したものだ。かかげていた日本国旗に対する侮辱である。
 ② 水の補給は緊急時であれば国際的に認められている。
 ③ 測量は他国もすでにやっていて問題ない。
 ④ 国旗を掲げていたのに撃ってきたのは万国公法違反である。かつ朝鮮は万国公法(国際法)を知らない無知。
 ⑤ 計画的挑発ということを証拠立てる文書史料がない。
 ⑥ 短艇(ボート)1隻で近づいたことが挑発であるはずがない。
 ⑦ 理事官の森山茂は、初めから譲歩と対話による平和的解決が日本側の方針だった。この軍事行動は一部の軍人・兵士が行なったことで、国家・政府の方針ではなかった。
 ⑧ 朝鮮側にはこの事件の史料がない。

 以上の「偶発的」とする見方を否定します。きわめて計画的なものでした。
 ① いかなる国の艦船も許可なくては通行ができない朝鮮の重要要塞地帯である江華海峡に入り、そして江華島の草之鎮に予告もなく入った。都の漢城に通じる漢江の河口付近、すなわち、首都・漢城(ソウル)の玄関で行動したわけだから、これは当然朝鮮側の抵抗を予想してとった行動でした。
 フランスとの武力衝突(丙寅洋擾へいいんようじょう)、米国との武力衝突(辛未洋擾しんみようじょう)は、いずれもここで起き。仏米は一時的には成功したので、ここを狙った。

 事件が発生する8ヶ月前、1875年1月19日、山県有朋の作戦指示文はこうでした、「朝鮮と戦争をする時期が来たので、今の軍隊の編成を一師団をあてて征服軍としよう。征服戦争の準備に適応するために、運送船と護送船を用意するだけでなく、朝鮮半島の要害地を獲得するためにも戦艦4・5隻は必要である」
(原文)「朝鮮国ト開戦ノ機ニ臨ミ即今行軍ノ編制ニ在ルー師団ヲ以テ征軍ニ備へ且ツ之カ需用ニ応ス可キ運送船ヲ供スノミナラス海上ノ護送付彼地ニ於テ揚陸ス可キ地形ノ要害ヲ得ンカ為メ少ナクも戦艦四五隻ヲ要セサル可カラス」(明治の征韓論)

 佐々木高行(元老院議官)の日記によれば、
 「今回の事件も必ずや日本から起したものだ。……艦長の井上が出航する前、朝鮮側から万が一発砲してくれたら幸い、と同志に親しく話して出かけた、とある士官から聞いた」
(原文)「今般ノ事件モ必ズ吾レヨリ求メタリト,思フナリ...艦長井上氏出帆ノ前、彼ヨリ万一発砲等スレバ幸ト、密ニ同志ニ口出シテ出テ行キタルコトハ、或士官ヨリ親シク聞ク処ナリ」(東京大学史料編纂所編『保古飛日比佐々木高行日記」6,東京大学出版会,1975年,301頁。)

 2日目の21日の攻撃は、雲揚号が先に発砲したことを示しています。20日で止めておけば、朝鮮・日本に被害もなく、白旗をかかげて2人くらいで再び会談を要求すればいいのに、そうはせず、準備して相手に打撃を与える目的で発砲しています。侵略は日本が始めた、と言えます。

 ② 清水の補給を目的として寄航し端艇(ボート)で接近したという文は第一報告書にはありません。後で追加した嘘が見え見えです。
 侵略して失敗した仏米の地図を手に入れて出発するくらい用意周到であったのに、必要な水を補給しないで航海に出たとしたら、あまりの失態と言わざるをえない。

 ③ 測量が目的だというのは、許可なくしてやることが問題。しかし当時の帝国主義国が無許可でやっていることを、他国もやっているからと自国の行動を是認するのは、ドロボーは他のひともやっているので許される、というのと同じ倫理観ゼロ。それと、江華島・永宗島の地域、島々と半島の間の狭い川のような地域(陸だけが領土ではないのは常識)、つまり朝鮮領内に4〜5日間も軍事行動をしていること自体が領海侵犯であることは明白。

 ④朝鮮政府は確かに日本の国旗をもらっていたが、中央に保管していても、その旗は地方にまで周知されていなかった。また朝鮮側の万国公法無知はまちがいです。知っていました。
 ■証拠→写真(これを朝鮮語で1865年出版)
 しかし万国公法に合わせた国際関係をつくる用意は朝鮮側になかった。従来の朝日関係の修正の必要性を高宗以下官僚達は考えていた。
 海域侵犯をした日本が国際法を破っているのに、朝鮮を国際法を知らないと攻撃しているのは笑止千万です。

 ⑤「挑発」をわざわざ文書にするバカがどこにいるのか? 文書史料がない、は即事件の計画性を否定しないものです。ヒトラーにユダヤ人殺害を命令した文書がない、ということをもって計画的な殺害は「なかった」と結論することはできない。文書の有無が殺害の有無を決定づけないことは、あまりにも自明。個人で考えても、殺人を犯すひとは皆文書を書いてから犯行におよびますか? 日本は重要文書の隠蔽・焼却を今もおこなっている国。
 山県有朋・森山茂の言葉にあるように、計画的な征韓事件です。
 戦争を予想して、大砲・銃を積んだ軍艦が行くことは、それだけで計画性があります。もし包丁をもっている男が殺人を犯して、「殺すつもりがなかった」と言ってだれが信用しますか?

ボートの絵
 当時のこの絵には、水を求めたら突如発砲してきたので応戦と、書いています。実は準備して2回目に日本側から発砲したのが実際でした。

 ⑥ 短艇(ボート)1隻で近づいたことが挑発であるはずがない、というのは変な考えです。命の危険があるからこそ「挑発」です。西郷隆盛が自分を派遣せよ、「朝鮮が使者を暴殺するに違いないから、そうなれば天下の人は朝鮮を『討つべきの罪』を知ることができ、いよいよ戦いに持ち込むことができる」と述べています(板垣宛書簡)。
 こうした「でっち上げ事件」から大きな戦闘にもちこむことは日本の常套手段になります(105人事件、張作霖爆殺事件、柳条溝事件、盧溝橋事件、日本人僧侶襲撃事件、大山事件)。
 釜山港以外の港に寄港する場合には、事前に釜山の草梁館を通して、朝鮮政府の正式な許可を得なければならないという約束事があるにもかかわらず、それをしないで侵入しました。

 ⑦ 理事官の森山茂の「初めから譲歩と対話」は交渉→戦闘の順として手始めに「平和」を言っているのであり、彼は、事件の前の1874年9月に外務省に送った報告書の中で、朝鮮での砲艦外交(軍事力で威嚇・圧力をかけて行う外交)の必要性を唱えていました。

 また「一部の軍人・兵士が行なったことで、国家・政府の方針ではなかった」というのは「だまし」の論理です。一部であれ軍の行動は国の行動になります。私的な軍というものは当時はないので、誰であれ軍人は国の機関として動いたものとみなされます。実際、初めは責める振りをして、後で追認・賛美するのが日本の常道です。東條英機も昭和天皇も「でしゃばった」軍部の動きを「下剋上」という言葉で非難していても、後では、むしろ「下剋上」を利用・容認・賛美して戦争を拡大していきました。
 ましてこの事件の前後、朝鮮との外交交渉に関わっている人間は、木戸孝允・大久保利通・三条実美・伊藤博文・黒田清隆・井上馨など、政府の中枢を構成したひとびとであり、一部などとは言えるものではありません。

 ⑧ 朝鮮側にも史料があります。史官を備えた朝鮮に記録がないということはありえない。
 朝鮮側史料には
https://db.history.go.kr/id/sk_007r_0020_0090_0080_0010
 朝鮮側史料には「砲撃を開始した理由について、わが方でその翌日船を運転して何の意図だったのか尋ねようとしたが、また砲撃にあって結局交戦」になった、と。井上良馨の第一報告書にも発表文にもこのことは書いてありません。
 韓国側の史料は、『淸季中日韓關係史料』の巻2、東北亜歴史財団の発行、日本の国会図書館も所蔵→ 
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025406095)

 これらのことから言えることは、江華島事件は、たんに挑発でなく、偶然でもなく、明らかな計画的侵略行為だ、ということ。「偶発」を強調するサイトのひとたちは、日本側の和平を求めるという部分を過信し、事件を些細なことにして明治の時代と同じ日本人の立場に立って侵略を容認しています。事件の前後を見たら、どちらが積極的に動いているか、侵略的かどうかは一目瞭然なのに。日本の当時の世論は、不平士族だけでなく、商人でさえも「征韓」を要求する情勢であり、国民的な意志でした。

 井上良馨が『海軍逸話集 第一輯(しゅう)』で語っている中に、次のような話が出てきます。35人殺した後で、さらに、

 当時は士官も水兵も皆日本刀を持ていたものだから、捕虜の死斬をしたがっていたが、戦済んだ後、そんなことをするのは以ての外だ、助けてやれと言って、帰してやった。

 ここで注目すべきは「助けてやれ」という部分でなく、「捕虜の死斬をしたがっていた」という猛々しい日本人のすがたです。

 日本のこれから見られる対外姿勢には、ささいな事を過大に屈辱ととり、責任を追及して土下座させる、武力・暴力をふるうことを厭わない、といったヤクザの振る舞いです。恐喝・当たり屋、といった表現がふさわしい挙行です。

 永宗島には、35人の戦死を悼む永宗鎮戦没英霊追慕碑が建っています。

 奪ったものは命の他に(→629034)
三連砲・大太鼓・小太鼓・靴・鎗・刀・弓箭・甲冑・諸旗・長柄之斧・采配・軍服弁帽・兵書類其外・琴・絃琴・横笛・ドラ・妙□(不明「妙鉢」のことか)・各房門額・常服弁帽子・永宗城図面
 これらの盗品の末尾に管理者?の名前「一等水夫 松村千代松」が書いてあります。 
 謝罪し、盗品は返還すべきであるのに、国立博物館は今もこれを所蔵しています。フランスは丙寅洋擾のときに奪った図書を返還しています。

(8)万国公法とビスマルク
 ヤクザの先生はビスマルクでした。
 米欧を一周する旅でベルリンに寄り、出来たばかりのドイツ帝国から歓迎式に招かれ、そこでビスマルクは次のように演説します(1873年3月15日)。

 諸君らは世界各国が礼儀を持って付き合っているのを見ただろうが、それは表面上のことで、現実は弱肉強食である。プロイセンは昔小国だったので、そのときの屈辱は大変忘れ難い。万国公法(国際法)は全ての国の権利を保障する法とされているが、実際に大国は有利とみれば万国公法を、不利とみれば武力に訴えて物事を行うだろう。日本は万国公法に則った国体を整備するよりもまず富国強兵に努め、独立を全うすることがもっとも大事なのである。(『米欧回覧実記』)

 大久保利通はビスマルクの本音の忠告に、その感動を明治6年3月21日付の手紙で、故国の西郷隆盛に書き送り、

ロシアへ留学中の西徳二郎あての書簡(3月27日付)でも「ドイツでの滞在期間は短かかったが、ビスマルク、

モルトケらの大先生に面会しただけが有益だった」と述べています。かれらが学んだのは国際法の無視でした。

 次回は、この事件の結果として、日本は日朝修好条規の調印を迫ります。

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