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2.先行研究 2-2.近代日本の建築と室内装飾織物の研究

先行研究の後半部分です。

2-2.近代日本の建築と室内装飾織物の研究
近代日本の建築、室内装飾、室内装飾織物についての先行研究は次の通りである。

2-2-1.近代日本の建築
2-2-1-1.金山弘昌
明治政府は1877(明治10)年に本格的な西洋式の建築設計と日本人建築家育成のために、イギリスの建築家であるジョサイア・コンドルを招いた。コンドルは明治初期の殖産興業推進のために設立された工部省にて工部大学校造家学科で教鞭をとった。明治期の典型的な大邸宅としてコンドル設計の旧岩崎家住宅がある。洋館と和館を併設し、別棟には球撞室もある。洋館外観は17世紀イギリスのジャコビアン様式を基調としているが、室内はイスラム風など様々な様式をミックスしている。夫人客室の天井は、花や鳥をモチーフにした日本刺繍のシルクの布貼りである。
明治中期にはコンドルの教育を受けた弟子達が活躍を始める。その中心的人物は、辰野金吾・片山東熊・曽禰達蔵・妻木頼黄の4人である。コンドルの弟子達が範とした当時のヨーロッパは、歴史的様式を模倣し組み合わせた折衷主義であった。妻木頼黄の代表作として装飾意匠の設計をした日本橋がある。「日本趣味」という折衷様式が特徴である。金山は次のように述べている(金山、2010、37-54)。

「日本趣味」とは、近代建築において、伝統建築のなんらかのモティーフを採用することによって日本的な特徴を表現しようとする様式的傾向の意味する概念であり、明治後期以降の日本の建築理論や言説において用いられているものである。


2-2-1-2.大川三雄
日本の伝統的な木造による住宅建築は、明治以降に伝統的技術が完成し、大正・昭和初期に最高点に達する。この時期に優れた和風住宅が多く造られた。
文化庁では近代の建築のうち、伝統的手法・技法になるものを「近代和風建築」として、保護している。全国的な残存状況および重要遺構の保護を目的に2002(平成4)年より「近代和風建築総合調査」を始めた。調査対象は、1868(明治元年)から1945(昭和20)年に建築された諸建築のうち、伝統的様式や技法で建てられた木造建築物、あるいは、一部洋風の様式や技法が用いられているが主に伝統的様式や技法で建てられた建築物、という特色をもつ住宅・公共建築物・宗教建築等・その他である。
建築における和風とは、幕末から明治にかけて、それまでには無かった西洋の洋風建築が入ってきた時に、伝統的建築が西洋建築とは異なる内容であることを認識したことにより、意識されて使用されるようになった。その方法には二つの姿勢があり、伝統的建築を継承していくものと新しい様式をつくっていこうとするものである。前者は御用邸や財閥の私的な邸宅、別邸、神社、寺院であり、後者は役所、裁判所、ホテル、宝物館など近代化に伴い必要とされた建物である。昭和初期には、合理主義を唱える建築家により新しい和風建築がつくられるようになる。伝統的建築の具体的な要素や形ではなく、明快性・単純性・簡潔さなどの空間概念に通じる特性に伝統を見出している。
近代における和風大邸宅の流れの中で、和洋折衷の技法に基づくインテリア空間をつくった明治宮殿の存在は極めて重要であるという。大川は次のように述べている(大川、2001、11)。

江戸期からの伝統的な様式や技法を継承する一方で、洋式の生活様式や新技術を積極的に導入するなど、和洋折衷を計りながらも独自の近代和風建築を創出しようとしたこの試みは、昭和初期にいたる建築界において高い評価を得ていたと考えられる。

大川は、和風大邸宅では新しい外交や生活様式を取り入れるために和洋折衷の技法に基づく室内装飾が行われたとしているが、装飾織物についての言及はなかった。

2-2-2.近代建築の室内装飾
2-2-2-1.山崎鯛介
明治記念館本館は、1881(明治14)年に赤坂仮皇居に建設され、明治天皇が使用した「御会食所」の遺構であるという。御会食所は、伝統的な和風建築でありながら、江戸時代の建物には見られない平面形式や寄木張りの床、ガラス障子、暖炉の大鏡、天井のシャンデリア等の洋風要素が取り入れられている和洋折衷の空間であった。山崎は次のように述べている(山崎、2017、22)。

これらは明治天皇がここで行う行為を意味付け、また視覚的に強調する役割を期待して意図的にデザインされた。

2-2-3.近代建築の室内装飾織物
2-2-3-1. 太田彩、宮内庁三の丸尚蔵館
明治宮殿と旧東宮御所は、宮廷建築の中でも室内装飾に重点をおかれた建物であり、コンドルの弟子の一人である片山東熊が室内装飾を統率した。明治宮殿は1888(明治21)年に竣工し、1950(昭和25)年に空襲の飛び火を受けて炎上し消失した。外観は木造和風建築、内部は西洋式の空間として室内装飾が施された。書院造風の内部に家具・敷物・緞帳・壁布地・シャンデリア・暖炉前飾りなどの宮殿装飾品を輸入して取り付け、和洋折衷の宮殿がつくられた。明治宮殿は木造和風建築であったが表宮殿での謁見などの公式行事は洋式(立式)で営まれるために、洋式の調度品か必要であったためである。室内装飾織物については宮内庁三の丸尚蔵館が次のように述べている(宮内庁三の丸尚蔵館、2011、4)。

壁に裂を張り、緞帳を掛けるのは西洋の室内装飾に倣ったものだが、その織物や刺繍の制作は西陣を中心に国内で行われたもので、染色や織機に新進の西洋技術を採り入れた。

太田は、「幻の室内装飾 : 明治宮殿の再現を試みる」展の中の「明治宮殿表宮殿の意匠美-色と文様による室空間のイメージをまとめて」の章で、明治宮殿表宮殿の室内装飾織物の色・織・文様を整理している(太田、2011、20-24)。

2-2-3-2. 小泉和子、前潟由美子、菅﨑千秋[他] 、平賀あまな
旧東宮御所は1909(明治42)年に完成した宮殿建築で、設計は宮内省同宮御所御造営局が設置され、片山東熊が建築事業を統括した。国内有数の建築家や工芸家、画家が集結し、様々な様式と荘厳な絵画・彫刻・工芸品がちりばめられた、国家を挙げての大プロジェクトであった。室内装飾織物には国産品が採用されている。京都西陣では、伝統的な技術や機械に改良を加え独自の織物製作を実現し、国内外の展覧会、博覧会で高い評価を得ており、また皇室建築などの壁面を飾る装飾として重んじられている経緯をふまえ、東宮御所の室内装飾織物については「国産の染織品が室内装飾に用いられたと考えられる」(小泉和子ら, 2014、97)、とある。実際に関わったのは、川島甚兵衛(川島織物)、飯田新七(高島屋)、西村惣左衛門(千總)である。

2-2-2-3. 恵美千鶴子
和洋折衷は、宮中における儀礼形式が座式から立式へと変更されたことに関係している。御会食所で具体化された意匠表現は明治宮殿へと引き継がれていく。
明治宮殿の造営を計画する過程で、西洋風の石造建築か、和風の木造建築かをめぐって長期間検討され、最終的に木造建築になった。室内空間について恵美は次のように述べている(恵美、2017、152)。

公の儀式や行事が行われる表宮殿は、和風の折上格天井を採用しながらも、ガラス戸にカーテン、壁に織物が貼り付けられるなど、いわゆる和洋折衷の室内空間が創出された。

室内装飾については、山高信離が統括している。表宮殿の中で一番重要な謁見所について恵美は次のように述べている(同、153)。

緞帳・壁貼付文様は龍や鳳凰などの「瑞鳥霊獣」、格天井は宝相華を中心とした彩色画、木の部分は黒の漆塗がされて、緞帳や玉座には金糸が多用された」「明治宮殿の中で一番重要な建物として、赤、黒、近の色調と「瑞鳥霊獣」の文様により、格調高い空間が作られていた。

 格調高い室内空間を創出するための重要な構成要素として染織が活用されている。
2-2-3-3. 宮内庁三の丸尚蔵館
美術染織の定義として宮内庁三の丸尚蔵館の次の記述がある(宮内庁三の丸尚蔵館、2011、4)。

日本画などの絵画の図様を、織、染、縫(刺繍)といった染織技法によって室内装飾用の壁掛や額などに表したものを、特に“美術染織”(または美術織物)と呼ぶ。

明治期代表的な宮殿建築である明治宮殿の室内装飾はもともとヨーロッパからの輸入品を調達する計画であったが、西陣に調整が下されるよう嘆願し、川島甚兵衛と飯田新七を中心に制作がすすめられ納入した。正殿を始めとする各室の緞帳、窓掛、壁張、柱隠等に使用された。施された文様は、鳳凰、獅子、龍、菊桐、華文等の日本の古典文様である。室内空間について宮内庁三の丸尚蔵館の次の記述がある(同、8)。

室内の壁面を染織品で飾るのは洋風の様式を取り入れたことによるが、ヨーロッパの織物を参考にしながらも、文様に工夫を凝らし、艶やかな緞子の壁張裂、光沢のある繻子地に色々な緯糸を使った複雑な織組織の緞帳裂を採用している。そしてこれらの裂を、和風の格天井や欄間彫刻、彩色などと組み合わせて、完璧な室内空間が作り上げられた。ヨーロッパの宮殿建築における織物や刺繍による壁張や緞帳の装飾性の重要さとそのデザインを十分に理解した上で、日本の伝統建築に組み合わせた、全く新しい空間であった。

 近代の宮殿建築の中において和洋折衷の空間を創出するために染織が重要な役割を担っている。

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