見出し画像

花束みたいな恋をしたをみて思ったこと

全て一個人の考えですので、あしからず。

現実から目をそらして理想を演じる

観た方は分かると思うのですが、「じゃあ結婚すればいいじゃん」とあまりにも投げやりにお互いを傷つけるような喧嘩の場面で、暗い話になりそうなところを、「麦茶苦すぎたかも」という絹の問いに対して、「これくらいでいいよ」と返したことが、お互いにとっての「一時休戦」となっていました。お互い仕事で、忙しくて、疲れてる。家にいるときぐらい穏やかにすごしたい。そんな気持ちが垣間見えるようでした。現実問題から目をそらして、明日から円滑に進めていけるように、何事もなかったように「今何見てるの?」とかいって、その場を流していったのが、いや分かるけど~あるあるだけど~それでいいの~話し合うべきだよ~と悶えていました。お互いに不満がたまっていて、すれ違っているのもわかっている。でもそれに何となく向き合いたくない。目をそらしちゃいけないのは恋愛も同じ。仕事終わりでも、好きなものについて語り合ったりする、というお互いが「実際はそうしたかった」未来を演じることで、喧嘩を流したのが、生生しかった。

理想をつきつめてったら死んじゃうの?


この映画では、恋愛ブログを書いていた作家が死んだとか、誰でも出来るような仕事がやりたくないといって海に全て投げ捨てた男とか、「才能は協調性や社会とは真反対だから。負けちゃいけないよ」っていって、結局死んだ先輩がでてきます。これは一見、理想をつき進めすぎた人間はしんじゃうのかなって。少し暗い気持ちになります。ですが、実際には、彼らの行動は、「理想をつきつめたから」ではなく「共感してくれる人がいなかったor殻に閉じこもってしまった」からだと思います。色んな人間が交じり合った社会で、理想をそのまま生活に体言するのは本当に難しいことです。だから、挫折経験が続いて、自分以外全てが敵、そう思ってしまったのではないでしょうか。これは今の社会にもいえること。もし就職しなかったらむぎくんも同じような結末になってしまったんじゃないかと思ったり。

好きは感情、感謝は行動

「好き」って、感情的なもので、行動や努力で続けていかないと、いつかは終わる。それは当たり前だし、何となくみんな分かってるんだけど、ほんとに忘れがちなことだと思う。好きと感謝の気持ちは恋人関係が続くほど同じような意味になっていくのかなって思う。好きって気持ちって、形式的にはキスとかで伝わりやすい。でも、感謝は、行動や日々の「積み重ね」でしか伝わらない、伝わりにくいものだと思う。

搾取されているという感覚

私、今まで20年ちょっとしか生きてないですけど、「搾取されているという感覚が自分を一番精神的に追い詰める」ことだというのは絶対だと、日々意識しながら生きています。自分が苦しんでいたとして、それが「君のために」「あなたのために」となってしまうと、もう余計苦しくなる。ムギ君とかの場合には、最初は「一緒に暮らし続けたい」という理由で始めてたのに、いつのまにか、「自分はいやいややらされている、でも生活のためだから仕方ない」という気持ちになってしまった。

でも私の場合、何か苦しくても、でもこれは子供のためだとか、社会のためだって思うと、あんまり精神的には追い詰められないというか、苦しくならない。

あとがき

きぬちゃんと趣味がかぶるところが多々あって、私もこの世界線だったらむぎ君と恋人になれたのでは!?と思いました。ごめんなさい。最後、別れのファミレスのシーンで、若きカップル未満の男の子と女の子が、「~のことずっと考えてました。」とか「私も」ってかなり正直に自分の心情を語るシーンが印象的で、観客たちに、「絹たちも、もっとお互い正直にいれば、違う結末だったんじゃないか」と思わせるための場面なのかと思いました。

今回この花束みたいな恋をみて、もっと自分だしていこうーと思いました!私は音楽が好きだ!本が好きだ~
また明日からがんばります!

花束みたいな恋をした 公式URL ↓↓↓
https://hana-koi.jp/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?