日記10/28

自分はマスな人間ではないと思いたい欲求は誰にでもあると思う。
ただの数字、消費者、歴史書に名を遺すどころかコンビニで二束三文で売っているムック本に載る事やインターネットでちょいバズりして人々の記憶の片隅にシミのように残る事すら出来ない人生なんて、情報化社会のお陰で誰でも自分の認識の上では画一的な一般大衆の一部ではないと思える程度の体験(大きな目線で見ればマスに過ぎないとは言え)が得られるというのに、気が狂いそうだ、、、

では狂わない為の方法として創作がある。曲を作って詩を書いて、ステージにでも立てればもう気分はひとかどの人間である。創作における、自分はマスではないという慰みの側面を引き出す。

しかしそれが出来ない、技術、才能、物事を自分の意思だけで達成する才能、全てが等しく欠け、出来ないならどうしようか。消費の仕方を変えてみる。消費の違いで差を付けようか。有名じゃない音楽、映画、ゲームを食べる。食べてクソを出してチンコ出して二次元エロ画像でシコって寝る。さあ自分は一般大衆から逸脱しただろうか。どうだろう。少し健康な生活を送り脳みそに血を回してみるとどうもそうは思えない。

ではどこへ進めばいいか。とりあえず、あちらこちらを歩いたつもりではある。しかしすぐに音を上げるか、物事に対して都合の良い認識が出来なかったから、安住の地は無かった。

歩くのをやめるというのもある。ステージへのあこがれは捨てる。壇上に上がる必要なんてないじゃないか。飯食ってシコって寝れれば十分という他ない。自分の写真が載った映画のポスター、クレジットされた音楽のCD、完売御礼のチケット、人生と消費したコンテンツを垂れ流すインタビュー記事、空想の世界を向こう側に全部投げ捨てる。結果ではなく、目標としてマスな生き方を目指す。共同体の一員として、人の為に動き、愛を語り、欲求をおさえたりおさえなかったりして生きる。関わった人の記憶にそこそこ残り、死んで3年ほどたてば思い出話のネタになるかどうか。インターネットという最悪の空間に対する意識はしない。苦しみは全て外的要因で、解決したり投げ捨てたりして問題を問題じゃなくする。

しかし問題となるのは。根源的な欲求をのぞき込むとどうも共同体の一員として生きるには歪だ。それに愛を語れるほどの社会性を育めなかったし、人の記憶に残りたいともあまり思えない。もし自分と言う人間を認識されるのであればそれはステージの上だけで、降りた瞬間に全て忘れて欲しい。 シコっているともんやりとこのままでは良くないと心の底で騒ぐ自分が居る。善良なマスの人間にすらなれそうもない。善良なマスの人間の人間になれないなら、せめてステージに上がるべきだ。どうも上がれない。普段の生活における自己肯定感、怠惰な性格、全てが足を引っ張ってくる。

安住の地は未だ無い。そういう人生。とりあえず、今日もクソして寝る。


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