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読切小説「ある男の手の甲」
読切小説「ある男の手の甲」
私が乗った駅から二つ目の駅で、その男は乗車して来た。朝の通勤ラッシュで車内は混雑している。私は運良く座った席で、向かい側の流れる風景を眺めていた。
すると一人の男が、私の席の前に立った。この日、人の数は多くて、車内はあっという間に埋め尽くされていた。
私は車内から流れる風景を、見るのが好きだったので少し残念な気持ちになったのだ。
遮る人の壁は朝の憂鬱な気持ちを、さらに倍増させるようだった。フゥと小さな息を吐いて、目の前に立つ男を何気に見ては溜息がもらした。
ありふれた一般サラリーマンの男。オールバックにした髪の毛は、白髪混じりで前が少し後退していた。定年近い男だろうかと私は思った。
そんな日常の光景に現れたサラリーマンの男へ、私は見上げた顔を下ろせなかった。
なんてことない光景なのに、その男は妙に気になる仕草をしている。この混雑の中、男は吊革も掴まずに、私の目の前で自分自身の手を見つめていた。
まるで医者がオペを始める前の、『今から手術を始めます』みたいな仕草なのだ。
私がどうして気になったのか、それは男の行動である。男は満員電車の中、ひたすら自分の手の甲を見ては笑っていたのだ。
周りの客も気にせず、ただひたすら自分の手の甲を見ては、微笑ましい表情で眺めていた。
私からは男の手のひらしか見えない。女性がマニキュアを塗って、綺麗に仕上がったか、はみ出してはいないかを確認するように。
それにしても気になる。一体、あの男はなぜ故に、そこまで自分の手の甲を見るのだろうか?
男の視線から爪を見ているわけではなかった。あくまでも手の甲を見ては、微笑ましい顔をしているのだ。
私は正直言って、男の手の甲が気になって仕方がなかった。そんな表情をされては、どんな手の甲をしているのか拝見したいものだ。
電車が次の駅に到着した時、男はおもむろに手を上げて、手の甲を食い入るように見つめた。そして微笑ましい顔をするのだ。
私はますます気になってしまい。電車が発車したと同時に立ち上がり、乗り込んで来た老人へ声を掛けようと考えた。
車内は比較的空いてきたが、席はまだまだ埋まっている。ここで老人に席を譲り、私は男の隣に並んで立とうと考えたのだ。どうしても男の手の甲が見たかったから。
この憂鬱な朝の通勤ラッシュに、何か面白い刺激が欲しかったからだ。そして、乗り込んで来た老人へ声を掛けようとした瞬間、なんと私の前に立っていた男は、あろうことか私の空けた席に座り出したのだ!!
唖然とする私を尻目に、男は席に座るなり手の甲を眺めた。これでは男の手の甲が確認できない。私は男の前に立ち、悠々と座って手の甲を眺める男に聞きたかった。
何故、そこまで自分の手の甲を見るのだと。席は埋まっていたので、私の場所からは男の手の甲が見えなかった。
しかも、私は次の駅で降りなくてはならない。このままじゃ、気になって仕事にも手が付かない。
私は何としても、男の手の甲を確認したかった。これほどまでに、自分の手の甲を、微笑ましく見る男が居ただろうか?
いや、私のみじかな知り合いにそんな人はいない。だから気になるのだ。次の駅まで、時間にしたら五分も掛からないだろう。私は何としても男の手の甲を見ようと、あらゆる角度から挑戦した。
それでも、絶妙な角度を保つ男の手の甲は確認できなかった。其の間、男は相変わらず微笑ましい表情で手の甲を眺め続けていた。
時間が迫った時、私にとって最大のチャンスが訪れた。次の駅の手前にトンネルがあることを思い出したのだ。
トンネルに入ったら、男の後ろ姿が窓に映る。その映った姿から手の甲を確認すれば良いと。トンネルを過ぎ去る時間は、秒にしたら十秒もない。
私はそのチャンスに、全神経を集中した。そして、トンネルが近づいた時、男の目の前から少しずれて立った。
次の瞬間、電車がトンネルに入る。私は爪先立ちで窓に映る男を見た。窓側に男の後頭部が映っていた。
そして、男は相変わらず手を上げて、自分の手の甲を眺め続けていた。
電車がトンネルを抜け出たあと、私は爪先立ちのまま、しばらくその場から動けなかった。男の手の甲を確認してしまったからだ。
二分後、電車は駅に到着した。私は我に返って、慌てて電車から飛び降りるのだった。少し動揺する私の背後で、電車は次の駅に向かって出発した。
私は顔を上げて、走り去る電車と男の手の甲を見送った。
あれは一体なんだったのだろうか?
朝の通勤ラッシュ、それは私に刺激的な朝を与えてくれる。それ以来、私はあの男と二度と会うことはなかった。
それでも男の手の甲は、一生忘れることないだろう。それほど刺激があったからだ。
そして心の中で思うことは、きっと大人の事情なんだろうと。
~おわり~
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