小説「山小屋の階段を降りた先に棲む蟲〜中〜」
小説『山小屋の階段を降りた先に棲む蟲~中~』
私と雨森は山小屋に向かう道中、一言も話さなかった。都会での暮らしや、彼女の近況についても質問をしなかった。
どうして話さないのか?
それは、二人だけにしかわからない理由があったからだろう。私と雨森は高校時代に付き合っていた。私は上京して、彼女は田舎に残る決断をした。
それがきっかけで、二人の中で繋がりの糸が解れたのは間違いなかった。こうして大人になった今、お互いに付き合っていたことを話さないのは別れが自然消滅だったという証拠だ。
だから、あえて話さないし、そのことにあえて触れようとはしない。
数分後、樹々が集団生活する一角の中に、あの懐かしい山小屋がひっそりと建っていた。まさか残っているとは思っていなかった。
だから、ボロボロになった山小屋を見て、当時の山小屋が頭の脳裏に蘇る。学生時代、この山小屋の持ち主が誰かなんて考えていたのだろうか?
「それはなかったな」と小さな声で呟いた。前方を歩く彼女に聞こえるように。
「なに?そんなに山小屋での思い出が辛いの?笹岡くんにとって、最悪な思い出だったかしら」と彼女は山小屋の前で立ち止まって言う。
「雨森、君はあの夏の日を最悪と思ってるのか?」
「さあ、どっちだと思う?」と彼女は前を向いたまま聞き返した。
「それは俺が答えるのか?」
私の問いかけに、山小屋の朽ち果てた扉が音もなく開いた。絶妙なタイミングだったし、真昼の山に薄気味悪い風を運んだような気がした。
生暖かい風が後ろから吹き抜け、彼女の髪を撫でるようにさらった。麦わら帽子が風と一緒に飛ばされて、開いた扉の中へと飛び込んだ。
「麦わら帽子が飛んじゃった」と彼女が独り言のように言った。
私の問いかけに答えない彼女。かつて付き合っていた二人。雨森を雨宮と呼び間違える私。数年ぶりに出会った私たちに、思い出の山小屋はゆっくり朽ち果てた闇を覆いかぶせようと近づいていた。
脇汗を感じて、シャツの胸元を指先で広げた。いつの間にか首筋にも汗が滴り落ちては、喉を渇きを感じさせる。
そんな私を気にしないで、雨森はサンダルを脱ぎ捨てて山小屋へと小走りで走った。
「おい!!雨森!?」
手を伸ばして追いかけようとした時、あの夏の日の光景と仕草がシンクロした。あの時も、私は彼女を追いかけようと手を伸ばした。
雨森の笑い声を耳に聴きながら、山小屋の扉へ飛び込んで行く彼女を追いかけたんだ。そして私たちは、夏の思い出を山小屋の中で経験した。
あれから数十年、上京した私に対して彼女は一度も連絡を寄越さなかった。
連絡先を教えていなかったが、私の母親に聞こうと思えば聞けたはず。それなのに、雨森は連絡を寄越さない。
そして、二人は自然消滅する。
「笹岡くん、早く来なさいよ」と山小屋の中から雨森が呼ぶ。
私は額の汗を拭って、朽ち果てた扉に手を伸ばして開けようとした。そして扉に手が触れた瞬間、扉は脆くも崩れ落ちるのだった。
入り口付近から、埃と木の香りが鼻腔を刺激した。腐敗した木片を足蹴にして、私は雨森の待つ部屋へと入った。
一つだけ窓があった場所から光が差し込む。今は硝子など無かった。あるのは縦横無尽に張り巡らせた蜘蛛の巣と小さな虫の死骸が引っ掛ている。
「なあ、雨森。何か俺に言いたいんじゃないのか?」部屋の真ん中で立っている彼女へ声をかける。
「ねえ、知ってる。ここに秘密の階段が有ること」と背中を向けたまま雨森は言って来た。
「えっ?秘密のなんだって!?」
「だから、秘密の階段が有るのよ。この下にね。そこで私は間違いを犯したのよ。だから、どっちだと思う。笹岡くんに聞いたんだよ。ねえ、意味わかる?」雨森はそう言うと、板張りの床を覆い被った藁を足でどかした。
私はこの時、彼女が何を言いたいのかまったく理解できなかった。あの夏の日まで遡るのは辛いことなのか?
それとも私が、忘れようとした思い出なのか。私は、あの夏の日の光景を少しだけ頭に浮かべたのだった。
しんしんと夏の空気が山小屋の一室を揺らしては、硝子の欠片となって映像が上映された。
〜下〜につづく
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