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「幸福は自分の畑から収穫するもの」収穫できる量を見極めることが、幸福であり続けるために大切なこと。

今日のnoteはすごく長いです。
前半は持論の「幸せタイムをできるだけ維持するために注意すること」
後半はなぜか「プロ奢ラレヤーへの感想」になってます。


人間の本質は“More and more”である。その欲求レベルが身の丈に合っているうちは幸福でいられるが、身の丈を超え始めると、不幸だと感じる。

(余談だが“More and more”ってなんだよ。って思う人は普通の人です。ピンと来た人は、同業者だろうか。まぁ、今回の記事にはあまり関係ないので深くは言及しない。)

“More and more”とは、労働組合の格言であり、AFL(アメリカ総同盟)の創設者であるサミュエル・ゴンパースって人の「私たちは“More and more”(もっと、もっと)、人生を豊かにしたいと願っています。」という言葉からきている。個人的に印象に残っているので引用しただけで、特に他意はないので安心してほしい。

さて、話を元に戻そう。最初に述べた通り、僕はこの言葉が人間の本質を表していると思っている。それを前提にすると、「もっともっと」といろいろなものを手に入れようとしているうちに、「どこかで頭打ち」になる。そして、その瞬間不幸に感じる。

思い出してほしい。子供のころお小遣いで買った100円のアイスは、最高においしく感じたのではないだろうか。プレゼントでもらった1000円のおもちゃは、一生の宝ものだったのではないだろうか。

今はどうだろう。100円のアイスよりも272円のハーゲンダッツのほうが美味しいし、1000円のプレゼントを貰うくらいなら、3000円のアマギフの方がうれしいんじゃないだろうか。(そんなことはない、という人は今のところ安心だと思う)

要するに、同じものでは満足できなくなって行くのだ。だから今以上のものを求める。そしていつかは今以上のものが手に入らなくなる。それはさながら、畑と収穫物の関係に似ていると思う。何も考えずに収穫し続けるとある日突然それが尽きるのだ。その瞬間から「不幸」が始まる。

この不幸が訪れる瞬間をいかにして伸ばすかが、幸せで居続けるためのポイントだと思う。何もしなければいつか不幸は訪れる。回避するためには、とりあえずの延命は有効だと思う。人生を終えるころにちょうど収穫しきれればそれで良い。
しかし、それより早く不幸が訪れるのだとすれば、なんらかの対策が必要となる。これについては、僕自身まだどうすればよいのかわからないが、とりあえず延命することで、逆転の秘策を思いつくための時間稼ぎはできると思う。期待してこの記事を見てくれている人には悪いが、この記事は無料ということで、とりあえず許してほしい。

ここからは違う話になっていきます。そのつもりで。
この先を読んでも上記の問いに対する答えはでません。悪しからず。


一方で、この延命措置をうまくとることができれば、「相対的に幸福になれる」と考えている。そして、僕が最近注目しているある人物はそれがとてもうまいと思っている。「プロ奢ラレヤー」なる人物だ。彼が何かしらのヒントになるかもしれないため、なんとなく考えを書き綴ってみる。

僕は彼を見たことがない。もしかすると幻想生物なのかもしれないが、SNS上で見かける彼の言葉の奥には、今回僕が述べた内容が少なからず含まれているような気がする。

うろ覚えで恐縮だが、彼のスタンスとしては「お金がなくても生きていける」「お金がないと幸せになれない、というのは当人の幻想」「日本人は簡単には死なない仕組みにいる。それに気づけばつらいことから今よりは解放される」といったものだったと思う。細かく覚えてないが。

この部分だけ受け取ると、先述した“More and more”の感覚をどこかに忘れてきたクレイジーボーイだと受け取る人もいるかもしれないが、それは違うと思っている。彼にも“More and more”の精神はあるはずなのだ。現に「定住の良さがわかってきた」「料理を楽にするためのライフハック募集」など、現状が良くなることへのコメントを発信している。大体、「嫌なことをやめるためには」とい問いかけのスタンス自体が“More and more”でしかない。

本質が僕たちと同じである以上、僕たちと異なるのは「収穫の仕方」ではないだろうか。自分の畑の収穫量をまず認識し、必要以上に収穫しない。何だったら大きな畑の持ち主から作物を分けてもらう。そういった工夫をしているのではないだろうか。そうやって、すべてを収穫しないようにしつつ、それによって新たに生まれる「一般人との相対的な価値」を利用することが、彼の活動リソースになっているのだろう。

ただ、気になる点もある。
コロコロ表現が変わって恐縮だが(長文を書きなれていないので許してほしい)、質素な彼の生活も、少しづつグレードアップしているように思える。
いつか僕たちと同じ領域に達するかもしれない。その時、彼は身の丈以下の事象に幸福を感じられているのだろうか。それとも、身の丈以上のものを求めてしまうのだろうか。

身の丈以上のものを求めるようになってしまうと、今の価値観である「相対的な差の価値」が薄れてしまう。
そういった未来に向けて、彼は次にどのようなアクションを取るのだろうか。生き方がうまい彼のことだから、食うに困ることはないと思うのだが。

とりあえず、「おごられ屋」という彼のエピソードは僕らのような一般人にとって魅力的であるので、その価値は当面失われることはないだろう。

だけれども、もしも彼が今以上のものを求めるとするのならば、今以上の何かが必要となる。仮に奢られ屋をエピソード1とするなら、これまでと違うエピソード2が生まれるはずである。僕にはすでに想像できない範疇であるためこれ以上は何も書けないが、とにかくその時彼は幸福を感じられる生き方ができているのか、そこに興味は尽きない。

*なんだかプロ奢リスペクト記事みたいになってしまったけど、仕方ないね。

#大人の自由研究

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