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【揃える、同じとは、同じと違い etc】


運動をする際には何かしらの目的があるはずです。

それがふわっとぼんやりしている人もいれば内容ごとにピンポイントで明確な人もいると思います。

話を戻しますが、効果の高い運動をする為には得たい何かを得られる状況設定と身体のコンディションを揃えておく必要があります。

複数の側面で観て対象者にとって難し過ぎたり簡単過ぎると効果が得られないと言う事を踏まえると、難し過ぎるとそもそもそれを表現出来ないのでそのまま闇雲に何回繰り返しても得たい効果を得られません。

何故なら運動による効果は取り組んだ事に対してのみ恩恵を受ける事ができるので。

また、難し過ぎる課題は同時に多大なストレスで不快となりマイナスの影響も多分にあると感じます。

逆に簡単過ぎると身体にとって全く刺激的ではない為これ以上身体の機能や強さを高める必要はないと判断する為現状より高める事は無いでしょう。

つまり、複数要因が複雑に絡み合う事により同じ事をしようとしても厳密に人が違えば同じにはならないと言えますし、実際にそれを常々私は感じています。

この同じは同じでは無いと言う理解はとても大切だと私は想います。

ただし、上の一文のみを切り取り受け取ろうとすると迷宮入りすると思うので安易な判断は避けて貰いたいところです。

文脈を加味したり、相手の使っている言葉のニュアンスを把握する事なく自分都合で入ってきた情報を処理する事程ズレた認識を生む事は無いと感じます。

そして、認識がズレる程、意図していない方向に進むのは想像に優しいはずです。

だから自分の意図通りに伝える事も相手の意図通りに受け取る事も難しいという意味で言葉を操るのは難しく、また不完全なものであると私は想います。

その差や自分が相手の言葉遣いに感じた疑問を解消する為に必要なコミュニケーションを取る事は有効だと感じます。

これは運動に限らずどんな事にも通ずる事の一つであると思います。

そうなる理由はごくごく単純なものから複雑なものまで様々だと感じます。

持って生まれたものも、積み上げてきたものも、その積み上げてきた方法も何もかも差異があるわけですから。

そもそも1人の人間でさえ日々の何かしらの変化で全く同じにはならない事をイメージすると分かりやすいかも知れません。

なので、事運動に関して言えば同じ運動を取り組んだとしても得られる効果は十人十色という事です。

それは、その運動に対しての向き合い方の度量の差や運動に対してどのような理解を持っているのか、どのようにその運動をしているのか等様々な理由によります。

総じて言うならば、繰り返しになりますがどの程度必要なものが正しく揃っているのかによって取り組んだ事によって得られる効果が変わると言えると私は想います。

ここまでの話を踏まえて言うならば各種動作毎の難易度は個別性が強く、概念化され順序立てされた誰もが通るべき道順というものは存在しないと考えます。

ある運動は他の運動の基礎であり、また他の運動はそれらの応用であり全てはポジティブにリンクしているという事は無いと私は感じます。

また、基礎基本が大事と言うのは私の中では現状可能な限り整理してありますが、一般論として何をもってそう呼ぶのかも不明瞭ですし、それが指し示す物量の程度もよく分かりません。

それが足りないからこそ得られる事も多々ある。
不足を補う為に有り余る機能を別で用意する事も可能な事もある。

そのようにして身につけた機能が世に言う正解を凌駕する事もある。

そう言う意味で基礎基本が大事と言うのは些か想う事が少なくありません。

私の中でも仮に基礎基本と応用に便宜上2つに分類したとしてその作用方向は決して一つでは無いと捉えています。

『幹が育てば枝葉も育つ』,『枝葉が育てば幹も育つ』

少なくともこの両面で2つを行き来する事が大切だと思います。

そして、ある部分の幹や枝葉が育てば不要になった幹や枝葉はなくなると言う性質も存在していると私は想います。

これを書いていても改めて個の全体を見た上で各々に判断する事の重要性に気付かされています。

少しの間、話が違う方向に行きましたが戻します。

先程、人には違いがあるとお伝えしましたが

・それがどのようにして生まれるのか?
・それは変化させる事は可能なのか?

この2点も感じ考える必要があります。

この2点に関しての詳細は今回は触れませんが、完成度の高いものを壊して新たなものを構築する事程大変な作業はありませんよね。

従って新たに何かを手に入れて変化させるのも変化しやすい状態の人と変化しにくい状態の人が存在する事になりここにも個人差が存在する事になります。

これで今回は最後にしますが、先程何をどのように積み上げてきたのかと言う事もお話ししました。

昨今、情報や道具が盛んに普及してきておりますが最新策と最善策を混合してはならないと強く感じる日々です。

不便だから身体が強くならざるを得ないと言う事を踏まえるとより正しい選択ができると感じます。

不便だからこそ養われたものも多くあると私は思います。

便利に溢れている状態では養う事が不可能なものも多くあるでしょう。

最新作の中に最善策がある事も多くありますが、それだけでは無いと言う事です。

特別な機材や情報無しに素晴らしい機能を積み上げてきた人も多く存在します。

そこに迫る事で最善に近づけるのでは無いのでしょうか?

つまり、そのような効果の高いかも知れない機材や道具が唯一の策では無いはずです。

バーベルやダンベルも人為的に作り出されたものです。

実際に担ぎやすく、握りやすく、重りの調節もしやすいですよね。

何をもって便利不便、自然不自然であるのかと言う事もよく感じますし考える機会が多くあります。

少なくとも私は振り返ると自分が今思うと余計な事を沢山してきたと実感します。

もちろん決して余計な事だと分かった上で取り組んで来たわけではありません。

それら全てが今に至る為に必要な道導だと解釈すると無駄など一つもないと捉える事もできるかも知れませんが、あらゆる側面の余剰は想像以上に多く削り切って残ったものが本当に必要なものでありそれを日々磨いていく事がとても重要だと想います。

#揃える
#同じとは
#同じと違い

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