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【運動について私が想う事】

写真は私がスプリントトレーニング(坂も含めて)をする時に使っているシューズですが、右が前任者で左が現役になります。

これを観た時に(いつも観てますが)分かる事や考察出来ることは多くあります。

動いている時に得られる実感としてもありますが複数の観点でもって動作が変化してると私は考えています。

しかし私自身はこの変化を意図的に起こそうとしていた訳ではありません。

勿論、日々様々な側面を持ったトレーニングを試行錯誤しながら繰り返して取捨選択はしています。

その結果として変化があるのならば、動作(フォームの事だけではありません)とは変えようとして変わるのではなく、コンディションやその他の要因の変化によって変わるものと言うのが自然で本質なのかも知れません。

意識しないと出来ないことは意識するとこから始めようと言う事も聞いた事もよくありますが、個人的には一考の余地がある様に感じます。

ただし何に対して、何を、意識するのかによってもその良し悪しの判断は多分に異なり話が複雑になるのでここでは動作の形そのものに対して意識する事を指す事とします。

結論としてはここで言う意識をしないと正しくできない事はまだやらない又は正しく出来なくても良いからここで言う意識をしないでできる範囲でやると言うどちらかを取れば良いと考えております。

とは言え、正しいとはどの基準でそれを言うのかによっても大きく異なるので、そもそも正しいとは何かという事も考え直した上で評価するべきなのかなとも感じる日々です。

私自身の運動理論を構築する上でしばらくの間、子供の時に遊びの中やスポーツをしていた時に身体を動かしていた時の感覚を思い出しながらそれを当て込むと言うのがかなり大きな比重を占めていますが、これを始めたばかりの時の頃は特に自分がとんだ思い違いをしていたと大反省する事ばかりでした。

それと同時にこの取り組みを始めてから驚くほど腑に落ちる事が多々ありました。

そしてこれは現在も続いており恐らく終わる事はないのかもと勝手に感じております。

その大きなきっかけの1つは大学生の頃の一時期、動作は正しいフォームで行う事こそが合理的で必要な事なのだから日常生活もトレーニングも全て可能な限りフォームそのものを全て意識して動こうと決めて動いていた時がありました。

今思えば完全なる間違いですが、その当時はきっと凄く良くなると過信していました。

しかし、そうして過ごしていた時に得られるフィードバックはその期待を裏切るものばかりだった事を鮮明に覚えています。

そうした経験から学術的な事実や研究データには限界値と可能な守備範囲があると現在は考えています。

これらを知っておく事は有利に働く事は間違い無いですが、決定的に欠如しているものもあると私は思います。

この様な事も踏まえて、実際に自分が運動をする事やそれを自分以外の人に指導するとはどう言う事なのか多く考えさせられます。

だからこそ、ただ運動や身体に関する情報を漠然と得るのではなく、実用性の高い情報を得る事が大事かなと思う。

それと1つのトレーニング種目つまり動作は作動させている機能は1つや2つでは決してないはずです。

そして、運動において必要な機能は1つや2つでは絶対にないと言えます。

つまり、1つのトレーニング種目や動作で鍛えられる機能は一つである筈がないと言えます。

ただし、これも同じ事をしていても個人差もあるので厳密に言うとより高いレベルで動ける程、作動させられる機能は多くなる、つまり1つの動作で鍛えられる機能は多く1つ1つの機能の高まりも高いと言えます。

今回は話の内容が色々と飛びましたが、これら全て運動においては欠かせない事であり、これさえやればとか、この機能さえ手に入れれば運動は上手くなるなどと言う事は無いとはっきりと言えます。

だから運動が上手くなる為には色々とやる事が必要なのですが漠然と色々な事に取り組んでいてもその効果は限定的だと感じます。

つまり、上手くいかない理由は○○が原因だねという断定的な意見は運動に対しての理解が低い事を自ら主張している事にもなりかねないと思います。

更に言うとある機能が低くなった事による問題と高くなった事による問題どちらもある事を理解しておくと良いでしょう。

#運動について私が想う事

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